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 ゆっくりきょろきょろ旧日光街道・旧奥州街道を歩く 
旧奥州道中 その

大田原-鍋掛-越堀-芦野
  
旧日光道中・旧奥州道中を歩く トップページ (目次)
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
大田原-鍋掛 12.11 km 12.54 km 17,709 大田原GPS測定値と歩数:約50m先のパインズホテル前
鍋掛-越堀 0.89 0.73 1,236
越堀-芦野  9.20   9.42   13,807  
合計 22.20 km 22.69 km 32,752
日本橋からの累計 174.55 km 192.46 km 271,880
日光道・奥州道の累計 208.66 km 230.45 km 329,328 GPS測定値と歩数に、寄り道、道の間違いロス分を含む
 
 map
2014年10月
    
 
 
大田原から鍋掛、越堀を経て芦野へ
       
 
 
京の文化は届かなかった?
  歩いてきた日光街道・奥州街道5国(県)に宿場は30宿あった。そのうち、下野の国、すなわち栃木県に20宿も
芦野 石の美術館ストーンプラザ
あり、圧倒的に多い。だから、日光道、奥州道の風景も、出会う人たちも栃木が印象の中心である。街道沿いの風景についていえば、圧倒的に「大谷石」である。日光道中でたびたび書いてきたが、蔵だけでなく、あらゆるところに使われている。石材を使うところはすべて大谷石と見える。圧倒的な存在感がある。大谷石の質感を利用した美しい建物も多い。宇都宮付近で産出する材料であるから、この街道は「大谷石の道」であるといえよう。

 一方、木造の伝統的な建築物、特に民家に注目してきた旧街道歩きの立場で見ると、宇都宮から北の奥州街道では、立派な長屋門を持つ巨大な屋敷が数多く見られ、これは魅力的である。しかし、旧東海道や旧中山道の宿場に多く見られた商家建築がとても少ない。宇都宮や白沢宿などの造り酒屋など、一部に伝統的な姿を残す建物が残されていて、若干格子も見られるが、それ以外に千本格子、連子格子の家は見られないのである。格子イコール街道文化と思ってきたから、これにはいささか驚いた。京都の格子が全国に広がったといわれ、これまで、旧街道はその格子文化を運ぶ役割を果たしてきたと感じてきた。しかし、この奥州街道にはほとんど届いていなかったようである。遠いうえに、途中に巨大な江戸がブロックしていて、京都の文化が届かなかったのかもしれない。格子が広がったのは、昭和に入ってから、とくに昭和40年以降であるといわれ、それは伝統的町並み保存運動とそれらの町を訪れる旅ブームが後押しした動きであったから、観光と結び付けてこなかった奥州街道では、その格子ブームが来なかったのかもしれない。観光化は望むところではないが、一般の民家や商家で伝統的な建築やその雰囲気が消えてしまったことは残念である。

 話が変わるが、栃木の人たちの話しことばには特徴がある。かつて、仕事で栃木県にたびたび出かけていたから、栃木言葉を聞くと懐かしさを感ずる。独特なのである。東北に近いから、北から伝わってきたのだろうが、仙台弁などと違って、単語そのものは東京のことばと大きな違いはなさそうである。違いは、イントネーションである。最後が、尻上がりなのである。これが、なぜか魅力的な響きである。そして、年配者だけではなく、若い人も、男性も女性も同じ発音なのである。テレビで見る有名な政治家もそうである。調べてみると、尻上がりのイントネーションに加えて、栃木弁にはアクセントがないという特徴があるそうだ。なるほどと思う。だからなおさら尻上がりが目立つのかもしれない。これまで、ときどき引用してきた、復刻版の「新人国記」には、下野のことばに訛りがあるとし、その校注に「四声の考えなしにことばを使う」とある。四声とは、中国語の発音での、「声の高さ」を示すものらしく、栃木弁のイントネーションやアクセントのことを言っているようだ。いずれにしても、このイントネーションには、とても親近感がわき、聞いていても会話しても、なごむのである。東北出身の自分だからかもしれない。あの、上野駅を利用する仲間であるから。

 
 
 
大田原から鍋掛へ 
 
  
   
   
 
    
  
 喜連川から佐久山へ
 
 
   
 
   
   
 
 
 この辺りでは十字路のことを「十文字」というようだ
 
   
 鍋掛から越堀へ
 
 
那珂川を昭明橋で渡るとすぐ、黒羽領の堀越宿である 0.7キロしか離れていない鍋掛宿と越堀宿の人馬は片道勤めだった 
 
那珂川
 
 越堀から芦野へ
 
 
 
 
 
  
 
 
余笹川 美しい川だが、平成10年8月の「那須の大洪水」で決壊し、
人命と財産が奪われた。下の電柱の赤いラインはその時の浸水高さを示している。
 右下の碑は、その災害と復旧の経緯を記した記念碑である 
  
 
 
                        
 
 
 
 
 
  
 
 
 
今回の奥州街道歩きの宿場で、氏家と大田原以外では唯一の食事処であった。
かつ、10回の昼夜の食事の中で一番の美味でもあった。蔵座敷でのうなぎがうまい
  
       

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