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 ゆっくりきょろきょろ旧日光街道・旧奥州街道を歩く 
旧奥州道中 その10

芦野-白坂-白河
  
旧日光道中・旧奥州道中を歩く トップページ (目次)
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
芦野-白坂 12.50 km 12.86 km 18,823
白坂-白河 7.60 7.87 11,119
白河-奥州道中終点  -   2.06   2,790  
合計 20.10 km 22.79 km 32,732
日本橋からの累計 194.65 km 215.25 km 304,612
日光道・奥州道の累計 228.76 km 253.24 km 362,060 GPS測定値と歩数に、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2014年10月
    
 
 
芦野から白坂を経て白河へ、そして奥州道中終点へ
       
 
 
自然と闘ってきた旧街道
  距離的には、日光街道と奥州街道を合わせても、東海道の約半分の230キロほどであった。予想通り、西へ向かう街道とは趣が違っていた。東海道はもちろん、中山道も、北陸道でも、京都からの文化が街道を下った様子がはっきり見えたが、奥州街道ではそうではなかった。宇都宮以北では京都からの街道文化の象徴ともいえる格子がほとんどなく、蔵造りや、長屋門つきの家などが目立った。京都からはあまりに遠いし、江戸の文化がなじむ土地柄なのかもしれない。それゆえにか、本来のその土地の姿が素朴に、素直に残っている旧街道であるともいえそうな気がする。広大な田畑や林、そして牛の声や搾乳機のポンプの音も聞こえてくる、のどかで自然豊かな道であった。

 前半、栗橋までに痛感したのは、広大な関東平野に張り巡らされた水路が江戸を支えたことであった。そして、あの利根川の東遷など、幕府による大規模な工事が防災のためではなく、水運の開発や確保のためであったことに驚いた。明治42年の大洪水やキャスリーン台風の大洪水などの対策が整ったのは明治以降、特に戦後であり、江戸のころは文字通り、水の流れに任せていたことを知った。幕府の政策が経済優先だっただけではなく、平野部に人口がまだ少なかったこと、巨大な自然のエネルギーを持つ川の流れをコントロールするための技術と、そのための経済力が充分ではなかったからでもあろう。

 これまでも書いてきたが、あらためて旧街道の自然災害に目を向けてみると、これまで歩いたどの街道にも自然災害の痕跡や自然との戦いの歴史が刻まれていた。中山道に通行制限が出た理由が、富士山の噴火で東海道沿道に大きな被害が出たこと、信州の追分から越後の高田に向かう北国街道の宿場の多くが、たびたびの土石流で壊滅的な被害を受けていたこと、北陸道の黒部川の度重なる氾濫で、遠回りする上往還のルートができたこと、など旧街道歩きで知ったことである。

 
平成19年8月那須大水害の記録と当時の水位を示した電柱
 そして、今回の奥州街道でも災害の跡を見た。白沢宿を過ぎると鬼怒川を渡るが、たびたびの水害で河原にあった一里塚が破壊されてしまったという。そして、鍋掛の宿を過ぎて芦野に向かう途中の余笹川を渡るとき、美しい川の風景を見るための展望台がある。そこに復興の記念碑があり、さらに川を渡るとその災害と復興のいきさつを刻んだ大きな石碑がある。まだ最近の、平成10年8月の那須大水害である。そこには災害により移設した多くの石仏が並んでいた。地域の生活が変わる大変な災害だったことがわかる。

 今年、南木曽で旧中山道を横切って土石流が流れて、大きな被害を受けたし、広島では大規模な土砂災害が発生して、いまだに傷跡が生々しい。また、旧中山道を歩いたときに仰いだ御嶽山が、突然に噴火して多くの人命を失い、冠雪のあった山頂付近ではいまだに行方のわからない方々の捜査が続いている。相次ぐ自然災害を前に天を仰いでしまう気持ちだが、冷静に考えれば、太古から大雨が降れば川が溢れるのはごく自然なことであり、がけが崩れるのも大地の変容の自然な流れであろう。自然に逆らって集落をつくり、町をつくり、道路をつくるかぎり、最新技術を駆使しても、ますます自然の脅威にさらされるのは当然かもしれない。どう、自然と折り合って行くべきなのか、歩きながら考え込んでしまった。

 道は、そして街道は、人の住むところをつないでいる。峠を越え、川を渡る。水害や土砂崩れの起きやすいところだって通らざるを得ない。だから、先人たちは自然からの危険を避け、しかし自然と調和するための工夫を重ねてきた。町を移し、道を迂回させたり、当時の最新技術で堤防も作ったし、安全を願って石仏も祀った。そして、危険回避だけでなく、暮らしの上で自然と折り合いをつける知恵の積み重ねが伝統的な家屋にもなった。格子でさえそのひとつである。江戸のころまでの、こうした自然との闘いと調和をはかる努力が、文化となって旧街道沿いに残っているのである。そう思うと元気が出てくる。そして、遠くの山をバックに見えてきた田園の美しい風景も、残酷な自然ゆえに生まれ、自然と調和させるために人が獲得した風景なのであると、あらためて気づいたのである。

 心して、歩こう。  さて、次はどこを歩こうか。
 
 
 
芦野から下野・陸奥国境へ 
 
  
   
   
 
 
 
 
             芦野の遊行柳   奥州街道歩き最大の楽しみであった。何代目かの柳が巨木に
                                                                  なっていた。
             西行と芭蕉、蕪村の歌碑、句碑の前も静かだった。まだ朝6時台である 

                  ・道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止まりつれ 西行
                  ・田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉
                  ・柳散り清水かれ石ところどころ 蕪村
 
 
 
 
 
 
 
 寂れているが、かつての繁栄の面影が残る。 寄居は、かつて間の宿(あいのしゅく)であった
 
 
 
 
 
 
    
  
 
 
   
下野・陸奥国境を越える 
 
 
この峠が関東/奥州境(栃木/福島県境)である。その両側に神社がある。こちらは玉津島神社と呼ばれる関東側の神社だが、
陸奥側の神社も、自分の方が玉津島神社として、真っ向から対立している
   
 関東/奥州境(栃木/福島県境)
 
こちらは奥州側の神社  奥州側では、こちらを「玉津島神社」、
関東側を「住吉神社」とし、関東側の説明とは逆である
 
 「山の神」危うし  
 
 白坂から白河へ
 
 
 
 
    
 
 
 
 
  
白河市街地の奥州街道に入る 
 
  
白河宿を過ぎて阿武隈川を渡る 
  
仙台藩戊辰戦没之碑が、五街道に指定された奥州街道(正式には奥州道中)の終点である
終わった! 成功!

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