越ケ谷から粕壁、杉戸、幸手を経て栗橋まで |
越ケ谷宿 |
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越ケ谷まできて、やっと、雰囲気が若干ではあるが感じられるようになってきた
しかし、旧街道に関する表示や標識はほとんどない。旧中山道歩きのときも、埼玉県内では同様だった
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元荒川 大橋より
荒川が熊谷あたりで分岐して流れる荒川系の川だが、古代、会の川経由で下る利根川の本流と合流して、
このあたりは利根川の本流だった。その当時、利根川の水は隅田川から東京湾に流れていた |
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江戸を支えた川の路 |
江戸時代、「利根川の東遷」と呼ばれる、利根川の流れを東京湾ではなく銚子に流し変える大工事があった。家康の構想により、江戸湾に流れていた利根川の流れを、銚子の太平洋に流そうとするもので、伊那備前守忠次がその工事にあたった、といわれてきた。その目的は、利根川による洪水を防ぐための治水工事だったとされた。下図は、古代以降、東遷が完成したとされる1654年当時までの利根川本流の移動の様子を描いたものである。千葉県立関宿城博物館による資料データから、その一部を利用して作図した。栗橋近傍と関宿近傍を中心に、赤堀川などの河川掘削や、拡幅、掘り下げや、締切りなどの工事が行われ、本流の海への出口は、隅田川から江戸川、そして銚子へと変えていった。実際には、この図ほど単純ではなく、関係する川がたくさんあり、きわめてややこしい。興味のある方は、同博物館の利根川東遷についてのページや、後述する書籍を参照していただきたい。
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利根川の流れの移動 (千葉県立関宿城博物館資料「利根川の東遷と関宿」から図の一部をトレースして作図) |
利根川の東遷は、治水が目的だったとされてきたが、近年、その通説が覆されて、それは最大目的ではなく、いってみれば3番目の目的に過ぎなかったとされる。2番目の目的は新田開発であり、最大の目的が、実は、急成長の消費地、江戸を支える物流ルートとしての水路の確保だったと説明されるようになったのである。「東廻海運史の研究」での渡辺秀夫氏の表現を借りれば、「利水が常に治水に先行し、開発のないところに治水問題は起こり得ない、という原則が浮かび上がる」というわけで、さらに「当時、水害が問題になるほど、進んだ水田地帯が埼玉平野にあったかどうか、はなはだ疑問である」ともある。
家康が入った時の江戸は、まだ石垣のなかった江戸城で、城下には茅葺の民家が100戸ほどあるだけだったといわれる。その後の江戸城下町建設は、すざまじい勢いで行われ、人口も急増し、不確かながら、江戸中期までに60万~100万人になったようである。当然、江戸の町づくりとともに、米はもちろん、食料などの生活物資の調達、輸送システムの確立がきわめて重要であった。
西国からの菱垣廻船や樽廻船のほか、酒田など、日本海側から江戸に米を輸送するために、幕府は河村瑞賢に命じて、津軽海峡、三陸沖を通る東周り航路を開拓した。この東廻り航路は、犬吠崎を回る航海で危険度が高かった。また一気に房総半島先端を回って東京湾に入ることが難しくて、下田まで行って風待ちをしてから改めて江戸に向かったという。だから、東廻り航路が開拓されたのちも、東廻り航路以前と同様に、千石船などの大型船は常陸那珂湊に入って、荷を小船に載せ変え、霞ヶ浦周辺の湖沼や川を利用し、つながらないところでは陸路も使って乗せ換えながら、利根川、江戸川をまわって江戸まで運ぶ、「内川廻し」が続いたという。その後、銚子湊が出来て、銚子経由で川を遡るルートが中心となった。そのころ、銚子から関宿に上って、江戸川で行徳に出て、小名木川経由で日本橋に着くまでの内川廻しは、約200キロメートル、約50時間かかったらしい。効率よく、江戸まで荷を運ぶ新ルートの開拓やルートの改善が重要な課題だったわけだ。ずっと後、動力船の時代であるが、明治23年に、利根川と江戸川(現在の柏市上利根と流山市深井新田の間)を結ぶ利根運河が作られた。ショートカットである。一方、米などの産品を中継する河岸の整備も重要である。舟運で江戸から運ばれてきた塩を、利根川の支流、烏川の倉賀野で牛の背に載せ換えて、中山道で諏訪、塩尻に向かった話を中山道歩きのページで紹介したが、関東近傍だけをみても、那珂川、久慈川、鬼怒川、渡良瀬川、などのかなり上流にまで多くの河岸があったことがわかる。
「江戸時代」の大石慎三郎氏の表現によれば、近世交通の哲学は「人は陸を、物は水上を」であった。陸路では牛馬だった当時、小さな川船といえども輸送できる量は雲泥の差だった。利根川で使われた川船も高瀬船であるが、使われていた地域によって、形も大きさもさまざまだったようである。京都の高瀬川で使われた長さ約13.7メートル、幅約2メートル、38俵積み、に対して、利根川の高瀬舟は、長さ約18メートル、幅4.5メートル、480俵積みとかなり大きい。舟運ルート開拓も、こうした船が通れる水深の確保が大きな課題だったわけである。洪水による土砂の堆積で水深が浅くなったり、渇水期の水量不足などへの対策が、水との戦いの実像であったようだ。やはり、洪水対策は、二の次だったということか。
江戸幕府による利根川の東遷も、その他の舟運ルートの確保や開拓も、基本である年貢米を運ぶための、また江戸の消費を支えるための、最大のインフラストラクチャー構築の一環だったわけである。古代ローマが、紀元前312年着工のアッピア街道に始まり、8万キロにおよぶ敷石舗装のローマ街道を建設したことを思い出す。「すべての水路は江戸に通ず」であろうか。
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<参考文献>
・渡辺 秀夫:東廻海運史の研究、山川出版社
・小出 博:利根川と淀川、中公文庫
・大石慎三郎:江戸時代、中公新書
・谷 弘:千石船の湊を訪ねて、芸立出版
・千葉県立関宿城博物館WEB:「利根川の東遷と関宿」
・平成15年度 船の科学館企画展「江戸の水運」
・渡辺一男:利根川治水私考 上 中、筑波書林
・千葉県立関宿城博物館WEB:「高瀬船物語」
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宮内庁埼玉鴨場 |
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粕壁宿 |
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粕壁宿を流れる大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
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寛永年間の関宿近くでの江戸川掘削まで、利根川の本流はここを流れていた。大落とは、田で使った水を流す水路、という意味らしい。キャスリーン台風の時には、この川も決壊したようだ |
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水との戦いは続いた |
江戸幕府は、利根川の水を利用して川をつなぎ変え、川幅を広げ、川底を掘り、運河を掘って舟道をつくり、維持しようと努めたのであったが、こうした水運の路のかなめの位置にあるのが、関宿(せきやど)であった。日光道中の粕壁宿(春日部)の先の追分から、関宿道が分岐しているし、幸手宿からも関宿道が分かれている。かつて、関宿藩として城があった関宿だが、水運のかなめとしてだけでなく、水路の新設、変更や水量調節工事の要所としても、関宿は実に重要なところであった。権現堂川の掘削と締切、赤川掘削と拡幅、江戸川掘削、流量調節のための「棒出し」設置など実に興味深いところで、今も、利根川はこの関宿で銚子に向かう本流と、江戸川に向かう支流が分流し、堰で流量調整がされている。千葉県立関宿城博物館がここにあり、資料を公開している。次回、ぜひ立ち寄りたいと考えている。
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関宿の利根川、江戸川分岐地点 左・江戸川(堰が見える) 右・利根川 中央下・関宿城博物館 |
Yahoo map |
しかし、江戸のころの大河川工事であった川の分離、つなぎ変えや掘削の工事は、自然の節理に逆らうところもあって、土砂の堆積で川底が上がり、船が通れなくなることも頻繁で、荷を下ろして陸送してふたたび船に載せるなどの苦労が大きかったようである。また、大雨による大洪水が起きると、計画がご破算になるほどの大損害が生まれたようだ。特に、川の曲がりを直して直線にするなど、流路を変えたり、川幅を変えて分流する流れの流量を調節すると、予期しないところで洪水を起こすことも多かったようである。家康の構想によるとされた利根川の東遷は、決して順調に進んだのではなかったようである。結局、東遷は、一貫した計画によって進められたのではなく、部分的な改修と、その失敗を修正するための工事を積み重ねて、結果的に東遷が成った、という面があったらしく、家康は出来上がった形を、当初から描いたのではなかった、ともいわれる。
利根川の流れを銚子の海に変える、この瀬替えが本当に完成したのは明治以降だともいわれる。先に、重要なポイントとして挙げた関宿には、上利根川からの流れを、銚子方面への利根川本流と江戸川への分岐点があって、当時は「棒出し」と呼ばれ、江戸川下流での洪水を防ぐために流れを抑える堤が江戸川側につけられていた。明治に入って、その「棒出し」を強化して、江戸川への流量をさらに抑えたのだが、その理由は、どうやら「足尾銅山の鉱毒」問題にあったらしい。明治政府が、鉱毒が江戸川を通って東京に氾濫することを恐れたためではないか、というわけである。この問題への対策として、利根川の東遷が完成したというわけだ。
利根川水系と江戸の市中に張り巡らされた水路網は、利根運河の掘削や荒川放水路(現在の荒川)の掘削などで効率化が図られ、一時は、貨物だけでなく、旅客輸送も定期船を設定して行われていたらしい。客船も走っていたのである。たとえば、両国から、古河、栗橋、銚子などへ向かう定期船が走っていたようである。当時の時刻表やルートマップも残っていて興味深い。しかし、北前船と同様に、琵琶湖の水運と同様に、鉄道やトラック輸送の出現とともに、東廻り廻船も、川を利用した水運も消滅した。ショートカット航路のための利根運河も、わずか20年で役目を終えたそうである。
残ったのは、洪水対策であった。明治42年の大洪水や戦後昭和22年のキャスリーン台風での大洪水など、明治、大正、昭和の政府が対策を進めてきた。利根川水系のダム群は、利根川水系の洪水対策の決め手として戦後に建設されたものである。今、首都圏の水がめでもある。
旧日光道も粕壁、杉戸、幸手と進むにつれて、川に出会うことが増えてきた。また、権現堂堤のような洪水対策の跡や、流れをせき止められた川、水門なども見て、今はとても穏やかな川だが、いったん暴れだしたら、現代でも恐ろしいことになるのではないかと、ちらっと不安も感じた。内陸奥深く入ったはずなのに、海抜が7メートルほどしかないことが、なんとも衝撃的で、不思議な気がするのである。大型の台風が来ようとも、この地域のみなさんが安心して暮らせるよう、切に祈るところである。
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<参考文献>
・渡辺 秀夫:東廻海運史の研究、山川出版社
・小出 博:利根川と淀川、中公文庫
・千葉県立関宿城博物館WEB:「利根川の東遷と関宿」
・平成15年度 船の科学館企画展「江戸の水運」
・渡辺一男:利根川治水私考 上 中、筑波書林
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大落古利根川 粕壁 新町橋 |
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杉戸宿 |
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大落古利根川 杉戸 |
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幸手宿 |
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中川 行幸橋より(下流方向)
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川の右岸に権現堂堤がある。川の左先に見える建物は洪水調整用の水門である。水門はもともと利根川の本流だった権現堂川との間にある。
権現堂川は、その上流部で締め切られて利根川からの流れを失った。これも、利根川の流れを銚子に持ってゆくための江戸時代の大工事の跡のひとつのはずだ |
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栗橋宿 栗橋関所 |
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栗橋宿本陣跡 なんと遺跡発掘調査中であった
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利根川である 堤防から上流を見ている
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坂東太郎。坂東は関東のことで、長男格、弟は、筑紫二郎、四国三郎とか。
写真の東北本線鉄橋の下に、渡良瀬川が流れ込んできている合流点が見える。左側からの流れが利根川本流である。
利根川は、農業にとって、また、かつては舟による物流にとって、大いなる恵みの川であったが、江戸、東京に至る広大な平野を水浸しにした、桁外れの暴れ川であった。
今、静かに、穏やかに流れている |
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埼玉県から茨城県に入る利根川橋である。向こう側の川辺に中田宿があった。
左遠くに筑波山が見える
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次回はこの栗橋宿から再スタートである |