その8 興津宿-江尻宿-府中宿-丸子宿-岡部宿 |
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2006年9月 |
ヌカだんご と とろろ汁 と マメ | |
興津の宿で、弥次さんは茶屋に立ち寄って、きなこ団子を買った。 駕籠屋の子に余った団子を上げようと思ったら、いやだ、という。わけを聞くと、「ナニ糠ァつけただんごはやァだ」という。 団子屋のばあさんも、「わしらがとこじゃァ、ぬかァつけてうり申」という。 弥次さんは驚き、仕方なく犬にやってしまう。 さすがに、糠団子は、今、興津の名物にはなっていないようである。 安倍川の川越えでは、人足がわざと深いところを通って高い渡し賃を取ったと弥次さん、喜多さんは怒るのだが、今、この安倍川のたもとには、旅人が川に落とした財布を届けて謝礼を固辞したという川越人足の美談を刻んだ「安倍川義夫碑」がある。 安倍川餅の茶屋のすぐそばである。 そういえば、安倍川餅は、安倍川のこの付近で採れた砂金を模して黄な粉をまぶした餅をつくったものという。 この橋の近くには、五十三次で唯一の公認の遊郭があって、府中で調達した資金で、弥次さん、喜多さんも豪遊した。 丸子の宿では、弥次さん、喜多さんも名物のとろろ汁を食べようと茶屋に入る。 ところが、その店の亭主と女房が、互いにののしりあいながら汁を準備するうちに、とうとう物を投げ合う争いになってしまった。 やまいもを摩り下ろして、やっとできた上がったばかりのとろろ汁を、弥次さん、喜多さんが浴びてしまって、結局、食べずに店を飛び出すはめになってしまう。 話を、自分の旅に戻そう。 興津の宿で眼を覚ますと、右足のひざが痛くて立ち上がれない。 左足に出来始めたマメをかばって歩いたためだろう。 歩き始めてじきに、膝の痛みは引いたが、左足に本格的なマメが出来つつあるようだ。 大都会である江尻(清水)や府中(静岡)には、旧道の面影がさほど残ってはいないこともあって、ひたすら痛みに耐えて歩きつづけた。 ときどき靴を脱いで手当てもした。 だから写真も少ない。 一号線は一直線に走っているのに、旧道は左へ、右へと大きく迂回する。 恨めしく思いながらも、旧東海道ルートにこだわる旅だから、足を引きずる。 ただ、ありがたいことに、旧道は静岡の繁華街を通るので、なかなか見つけられなかったアミノ酸系のサプリメントを入手することができた。 筋肉の強化、疲労回復に即効性があるという。 体育協会からは「ドーピング剤ではない」との証明をもらっていて、スポーツマンが使っているという。 友人の経験を信じて、効くような気がするから、飲んで元気百倍である。 足のツリ対策はできた。 マメにも効く薬もあればよいのだが。 弥次さん、喜多さんも、マメには苦労したようである。 途中、わらじを捨てて、ぞうりを買ったり、岡部の宿を前にして、 「豆腐なるおかべの宿につきてげりあしに出来たる豆をつぶして」 などとも詠んでいる。 |
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江尻宿の中心を過ぎて、可愛らしい河童の像のある稚児橋を過ぎてしばらくゆくと、「是より志三づ道」と書かれた道標があり、そばに「追分羊羹」なる店がある。老舗として有名らしいが、そのまま通過する。 |
府中宿から安部川へ page top に戻る | |
丸子宿に到着 page top に戻る | |
安倍川を渡って、手越原の五叉路で道を間違えた。 これも旧道にこだわったためであるが、かなり歩いてから方向が違うことに気付き、地図と磁石で確認した。 大きなロスである。 丸子宿も、旧東海道を歩くにあたっての楽しみにしていたところである。 もともとは鞠子と書いたらしい。 |
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宿場時代の職業が看板に書かれている。 ここは、「とうふや」である。。 |
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弥次さん、喜多さんが、食べ損なったとろろ汁の店である。 いや、当時は丸子の宿に、とろろ汁の茶店が軒を並べていたというから、弥次さん、喜多さんが入ったのがこの店かどうかはわからない。 しかし、広重の丸子宿の絵のモデルはこの店のように思われる。 この丁子屋(ちょうじや)の店は大変広くて立派なつくりである。 ご主人(と思われる)から、「五十三次を歩いているのですか」、と聞かれたので、「そうです」と答えたら、「道中安全」と書かれた江戸時代の旅人が持って歩いた木版刷りの札を下さった。 我慢の旅だから、とてもありがたい。 ここから、宇津ヶ谷峠に向かう。 |
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丸子から宇津ヶ谷に入る page top に戻る | |
丸子川沿いの 旧道をさらに進むと、久しぶりに1号線と合流する。 なお、今回の吉原から岡部までのルートでは、旧道が残っている部分が多く、国道を歩く部分はわずかである。 きちんと調べたわけではないが、直感的には5%程度ではないかと思う。 高速道のような立派な1号線を歩道橋で渡ると、目前に1号線の巨大な新宇津ヶ谷トンネルが現われる。 その直前を右に曲がると山あいに、上の写真のような家並みが突然現われる。 一気に場面転換が行われてしまった。。 |
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宇津ヶ谷は、難所だったらしい。 先人の苦労が地図に表れている。 1号線の巨大な新宇津ヶ谷トンネルの他に、古代の「蔦の細道」、「江戸時代の官道」、「明治のトンネル」、「大正のトンネル」などがあって、わかりにくい。 もちろん、今回の旧東海道の景観を求める旅の目的から、江戸時代の旧東海道を通って、宇津ヶ谷の集落を見て峠を越えることにする。 往時の面影を残す家並みは見事である。 景観の保存に努めている様子が分かる。 路面にしっかり石材が埋め込まれているので歩きやすいが、いささか整いすぎの感もある。 秀吉ゆかりのお羽織屋があるが、見学せずに坂を登る。 家々の板壁、黒瓦の大きな屋根、そして、坂道から見え隠れする小さな茶畑と森が、なんとも穏やかで美しいコントラストを描いている。 |
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宇津ヶ谷峠あたりはうっそうとした茂る木々に覆われている。 トンネルを掘ったときの苦労を示す絵図も道沿いに掲げられている。 広重の岡部は、保永堂版、行書版、隷書版ともに、宇津ヶ谷峠の急峻な山道を描いている。 下ると、一旦1号線と合流したのち、道の駅の先でわかれて、岡部の街並みに入ってゆく。 |
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岡部宿 page top に戻る | |
岡部宿は予想以上に魅力的な町であった。 岡部川沿いの旧道は、心躍る景観が続いて、カメラをたたむ暇がない。 この町は、見かけは静かできわめて穏やかだが、活気が感じられる。不思議な感覚につつまれる。 左上の肥料の看板の、もうひとつ上の写真は、大旅籠・柏屋で、今は歴史資料館になっている。 その近くに作り酒屋があって、そこの「初亀」が、この夜の酒だった。 宿は、入口を探すのに苦労する小さな旅館「きくや」である。 清潔で心のこもったもてなしがうれしかった。 足の痛さと戦った今日の行程は、歩数計からの換算で32.5kmであった。 道を間違えてロスをしたにもかかわらず、カシミール3Dによる正規ルートの計算値と合い、里数から換算された宿間の距離表の数字とかなりのずれがあることが不思議である。 夕食のビールが沁みた。。 |
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翌日、この岡部宿から藤枝宿、島田宿をめざし、できれば金谷宿まで行きたいが、低気圧が接近しているらしい | |
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