その7 吉原宿-蒲原宿-由比宿-興津宿 |
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2006年9月 |
弥次さん、喜多さんに追い越されてしまった | |
吉原宿で、暑さを避けて長逗留しているあいだに、弥次さん、喜多さんに追い越されてしまった。 二人は、ちょうど今、お伊勢さんに到着するところである。 広重の描く五十三次に加えて、東海道中膝栗毛を旅の友に加えることにしたのだ。 脚注に頼りながらの原文読みはいささかしんどいが、二人が繰り広げる珍事や騒動から、東海道を歩く人々、そこに住む人々や宿場の様子が生き生きと浮かんでくる。 十辺舎一九が前書きに書いているように、五十三次の名所旧跡の説明は一切ない。 ただし、古典を引用した狂歌や駄洒落が頻繁に飛び出して、二人の博識ぶりがうかがえる。 蒲原の宿では、喜多(北)さんが、深夜、木賃宿に同宿の巡礼の若い女を追って二階に上がり、その女の床と思ってもぐりこんだのが、実は、連れのおばあさんの床で、あわてて逃げるときに、竹すのこを踏み抜いて下に落ちてしまい、大騒ぎになるのである。 9月も彼岸を迎えてやっと涼しくなり、吉原宿から再び歩き始めた。 これまで暑さ対策から好天を避けてきたために、せっかく富士山のふもとを歩きながら、その姿を仰ぐことができなかった。 今回から、できるだけ好天を選ぶことにしら、さっそく美しい富士を楽しむことができた。 美しい秋の空である。 広重が由比宿として、田子の浦越しの富士を描いた場所として有名で、今は眼下に東海道線、国道1号線、東名高速道がもつれ合う景色が名物となった薩埵峠越えが、今日のハイライトである。 |
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東海道線吉原で乗り換えて、岳南鉄道の吉原本町駅が出発地である。 早朝4時50分に家を出て、8時08分から歩き始めた。 | |
富士川橋から | |
富士川橋上から | |
富士川を渡り段丘を登ると間宿(あいのしゅく)の富士川宿である。 脇本陣の庭から、お茶でもどうぞ、と誘ってくださったが、先を急ぐので失礼した。 声をかけてくださることがうれしい |
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蒲原の宿に入る | |
広重の蒲原宿は、雪景色である。 昔から蒲原ではこのように雪が積もることはないという。 広重は東海道を通ったことがない、という説の根拠として取り上げられる絵のひとつだが、むしろ広重の五十三次の中での最高傑作であるとの評価が一般的である。 詩情にあふれ、見ていて胸が熱くなる作品である。 広重が描いたと思われる場所に、「蒲原夜の雪」のレリーフが立っている。左の写真は、その銅版を写したものである |
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二段構造の屋根の上の瓦の下の漆喰壁が特徴的 |
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蒲原には宿場の雰囲気を残す家々がよく保存されている。 | |
大正時代の建築の旧五十嵐歯科医院 | |
ここにも瓦屋根の下に漆喰と思われるふくらみのある白壁が見える | |
連子格子やなまこ壁など、味わいのある家々が続き 大変に魅力的な街並みである |
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桜海老で有名な由比宿である。地名も魅力的である。 すでに漁期が終わっていて、海老を干す風景がないのは残念である。 この宿場では、本陣が復元されている。その庭に、話題の「高野槇」があって、お祝いの掲示が出ていた。 宿場の雰囲気を色濃く残して、落ち着きのある美しい街並みである。 |
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由比から興津に抜ける途中に、旧街道の魅力が集まっている。 まず、「倉沢のさざえ」が有名である。食いしん坊のお公家さんが「今始めて薩埵の薩埵たる、さざえのさざえたることを知れり。五つまで食いたれども足れリとせず。貝の尻を探り見れども、ごとごと汁のみ鳴りて身はあらず」(三省堂:東海道五十三次ハンドブック、p75) 残念ながら、昼食のタイミングが合わなかった。 倉沢の旧東海道沿いの集落には、ほれぼれするような街道の街並みが登場する。 撮影用セットではなく、実に生活感のある、美しい景観である。 ここを抜けると、いよいよ薩埵峠である。 |
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旧東海道を歩くことを決めた理由の一つがここにある。薩埵峠である。 その峠への登り口に一里塚跡がある。その小さな石の標識の横に沢山の杖が置かれている。どうぞご自由にお使い下さい、という意味だと思う。さほどの高さではないので、その好意を無視して登り始めた。 ところが、またまた足がつってしまった。今回は右足のすねの下部である。友人からの忠告を得て、今回はお茶ではなく、スポーツ飲料を飲んでいたのだがダメだった。 と思ったとたんに思い出した。 もう一人の友人から勧められて、別の機会に効果を実感したはずの、アミノ酸系サプリメントを飲むこと、持ってくること忘れていたのだ。 明日、清水や静岡を通過するときに買い求めることにしよう。 峠からの眺めはさすがに見事である。朝から見えていた富士山が、峠を通る午後まで姿を隠さずに待ってくれているかどうか心配だったが、この通りである。 広重が描いた場所である。 道路など人工的な構造物はふつうなら景色の邪魔ものであるが、ここではこの曲線が不思議で面白い景観を作っているのである。 |
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薩埵峠を下ると興津である。 かつては奥津と書いていたらしい。 広重の興津川の渡しでは、関取が四ツ手駕籠と馬で渡っている。 その興津川の土手で休憩し、合流した国道を進んだ。 今夜は興津泊りとすることにした。 日本橋から約160km歩いたことになる。 |
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