東海道五十三次を歩く その6 三島宿から吉原宿まで 第1部(三島宿-沼津宿) |
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・・・・・・ クマゼミ登場 ・・・・・・ 梅雨明け後も涼しさをもたらしてきたオホーツク高気圧が撤退するようで、まもなく本当の真夏の暑さが来るという。 前夜の天気予報が、明日は曇ってはいるが最後の涼しい日になりそう、というので歩くことにした。 8時過ぎ、三島駅の改札口を出ると、なんと青空が広がっている。 約束が違うではないか! 駅前の大きな樹では、クマゼミがやかましく鳴いていて、朝から暑さがこたえる。 でも、蝉の種類が変わって、箱根を越えたことを実感する。 旧道へ出て、前回の終点、三島本町交差点が今回のスタート地点である。 |
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三島は、富士からの水が湧き出る町である。細い流れも勢いが良い。 楽寿園の池から流れ出しているという。 三石神社にある「時の鐘」を見て、伊豆箱根鉄道の三島広小路駅踏切を越える。 |
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黄瀬川である。 三十三間の板橋がかかっていたという。 川の雰囲気は、この先で合流する狩野川に似てのどかである。 この黄瀬川を渡ると沼津市である |
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・・・・・・ 広重のまちがい?? ・・・・・・ 沼津に入ると間もなく狩野川に沿って歩くことになる。 といっても、高い土手があって、流れを見るにはその気になって土手を登らなければならない。 広重が描いた場所の見当をつけて、一気に土手を登った。 広重の保永堂版の「沼津」は、狩野川沿いの榎並木を、天狗の面を背負った金毘羅参りの男と、巡礼か、あるいは抜け参りなのか、菅笠姿の母娘が描かれている。 向かっている方向には橋が架かっている。 人文社の「広重の東海道五拾三次旅景色」の説明によると三枚橋だという。 さらにその先の、沼津宿の家並みの上に大きな満月が輝いている。 副題は「黄昏」である。これが問題である。 狩野川を沼津宿に向かっているから、その方向は西である。 満月が、黄昏時に西に見えるはずがない。 |
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広重が見た地点かと思われるところで、絵とは逆に東を見たものである。 満月はこちらから昇るはずである。 |
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こちらが、西を見たところである。 視界をさえぎっているのは黒瀬橋である。 仕方なしに、黒瀬橋の先に出て、西を見た。分かりにくいが、この左下の写真のビル街の手前に橋が写っている。 三園橋である。 地図を見ていて戸惑ったのは、「三枚橋」がないことだ。 地名として、「三枚橋町」があるのに、橋は「三園橋」である。 先の資料を、もう一度調べたところ、広重の描いた橋は、狩野川ではなく、そこに注ぐ狢川(むじながわ)にかかる「三枚橋」であったようだ。 おそらく、狢川は埋め立てられて、道となり、その道が狩野川を渡るために作ったのが三園橋であろう。 ただし、話はそう簡単ではなさそうだ。 調べてみると、この広重の沼津については、かなりの議論があって、川は狩野川ではなく、黄瀬川であり、道も黄瀬川沿いの足柄道であるとの説の方が有力らしい。 描かれている人物についても、十返舎一九の続膝栗毛口絵や司馬江漢の絵との関係が議論されているらしい。そもそも広重は東海道を歩いていない、と書かれた本も出ている。 |
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土手を降りて旧道を進み、あだ討ちで有名という平作地蔵の小さな祠を過ぎると、一里塚跡に玉砥石なるものがある。 玉を磨くのに使ったらしい。 そんな説明を見て、塚をぐるっと回っていると塚の右手の小道の先に神社が見える。 日枝神社らしい。 そちらにレンズを向けようと思ったら、その方向からおじいさんが来る。 白装束に菅笠姿だ。 |
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・・・・・・・・・・ 江戸から?? ・・・・・・・・ そのおじいさんに声を掛けられた。 「歴史の勉強かね?」 ・・・「いえ、五十三次を歩いているんです」 「それじゃあ、江戸から来たのかね?」 ・・・ これには、吹き出しそうになった。 でも、菅笠姿のおじいさんだと、こんな質問も不自然さがない。 不思議であり、うれしくもあった。 ・・・「はい、日本橋からです。今日は三島からですが」 「この300メートル後ろが、広重が絵を描いたところだよ」 ・・・「ええ、土手にあがってみてきました。 橋が邪魔でしたが」 「あの絵には、月が描いてあるだろ」 ・・・「ええ、でもあれは間違っているらしいですね。 方向が違いますね」 「おぉ、あんたはよく勉強している。 でもね、月の道筋は365日違うんだ。 一年に一回だけ、あの絵のところに月が来るんじゃ」 ・・・「えっ?」 「月が書かれている絵が何枚かあって、そのうち、松の樹の左に月があるのが正しいのじゃ」と、しゃがんで道路上にチョークで書いて説明してくれた。 ・・・「??」 「11月の満月の日の朝早くじゃ」 ・・・「えっ、黄昏ではなくて、早朝ですか。 なるほど、それなら分かりますね。でもー・・・」 「黄昏」と副題をつけたのは広重自身ではなかったか、と云いたかったのだが、そもそもいろいろな説や議論があって、ややこしくなるからやめた。 帰って調べたら、たしかに黄昏ではなく、早朝であるとの説もある。 「ところで、この手前に、家康が腰をかけ、その前には頼朝もすわったという石を見たかね?」 ・・・「いいえ、見ませんでした。知りませんでした」 「あんた、もっと勉強しなくちゃだめだね。 私は、東海道を何回も歩き、中仙道も歩いたよ。 あんたも、もっと何回も歩きなさい。 そうすればいろいろ分かってくる」 ・・・と、今度はしかられてしまった。 この道の1.2m下に、大名が通った本当の東海道が埋まっていることなど、他にもいろいろな話を聞かせてもらった。 楽しい出会いであった。 でも、一番知りたかったことを、とうとう聞き忘れてしまった。 ・・・おじいさんのかぶっている菅笠は、どこに売っているんですか? |
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下は、旧沼津城を描いた絵で、城跡の説明版にあった。 城は、今、何も残っていない | ||
上の鉄橋は御成橋である。 沼津宿は、城下町ゆえに、旧道は直角に何度も曲がる。 残念なことに、戦災や大火のために、旧街道や宿場を思わせるものは何も残っていない。 左写真の青いビルは、45年前に伊豆半島を歩いた後、仲間とひと晩世話になった家だ。 旧東海道側からみると、建物の裏側になる。 となりに、古い蔵がちょっとだけ見えている |
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右の先に見える坂が永代橋である。 この写真の左方向が、通ってきた本町で、この角を手前にまがったあと、旧東海道は一直線である。 角は、昔からの「花見せんべい」屋さんである |
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浅間神社 | ||
沼津藩の西の境を示す傍示杭である。明治末期に下半分が折られてしまったが、同じ筆跡、同じ材質の「従是西沼津領」という傍示杭が、下石田に健在ゆえ、「従是東沼津領」にまちがいないとされている。 これから先、延々と、原宿、吉原宿へのまっすぐな道が続く 第2部(原宿-吉原宿)へ |
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