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その4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二宮-小田原宿-箱根湯本(三枚橋) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2006年7月 |
二宮-小田原宿(江戸口見附まで) page top に戻る | |||
バーチャル・旧東海道景観博物館 | |||
今回は一人旅だ。 二宮駅入口を8時ちょうどに出発した。 この「ゆっくり・きょろきょろ東海道五十三次を歩く」では、日本橋出発以来、旧東海道沿いに登場する江戸、明治、大正から昭和に受け継がれてきた雰囲気を記録してきたが、歩を進めるにしたがって、記録したいと思う対象がますます増えてきた。 ここに掲載しなかったが他にも沢山の美しい建物や街の写真がある。 これからはさらに絞込みを強めながら続けてゆきたい。 こうして写真を並べてみると、江戸の頃といえなくても、少なくとも「大正村」、「昭和町」と呼んでも良いような景観が沢山残されていることが分かる。 立派に保存されている建物も多く、ホッとするし、現代風に上手に改造して雰囲気を伝えている商家も多い。一方で、朽ち果てようとしている蔵など、このままそうっと保存できたらと思うような、実に美しい絵である。 ページが、「バーチャル・旧東海道景観博物館」のイメージに少し近づいてきたような気もする。 |
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二宮駅入口交差点を出発 | |||
押切坂一里塚から旧道に入る。 旧道だからゆうゆうと横断できます、ニャン。 |
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西湘バイパスと並ぶ国府津近くで、やっと海が現われ、小田原の町、そして箱根連山が見えてきた | |||
国府津に入る。小田原市である。 とたんに、興味深い建物が次々に現れる |
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大正ロマン的な洋館も多い | |||
酒匂川である。10月から3月は仮橋がかけられていたが、水嵩が増す4月から9月は徒歩渡りだったいう。 広重は保永堂版も行書版、隷書版ともに小田原(酒匂川)は、徒歩(カチ)渡しの様子が描かれている。 左の写真は、ほぼ広重の描いた方向のはずで、箱根の山がバックに写っている。 広重は山の麓に小田原城を描いているが、この写真を拡大しても確認できなかった |
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小田原宿-箱根湯本(三枚橋まで) page top に戻る | |||
小田原宿の江戸口見附付近の説明版にあった大正時代初期の写真である。 説明にはないのだが、電車の線路は国府津から箱根湯本まで走っていたという小田原馬車鉄道・電気鉄道だろうか。 明治21年に開通し、その前年には新橋-国府津間が開通していたので、東京から日帰りで湯本で遊べたという。 架線も見えるが、明治33年に電化したそうだ。強羅まで延長された箱根登山鉄道の前身らしい | |||
城下町である小田原は、東海道最大の宿であった。 箱根越えに備えて、ここで英気を養ったのだろう。 本陣が4軒、脇本陣が4軒、旅籠も95軒もあったという。 左の写真は脇本陣のひとつだった古清水旅館である。 青物町交差点から宮前町、本町あたりが宿の中心だったようだ。 「小田原宿なりわい交流館」が休憩所になっていて、お茶をいただいて一息つくことが出来た。 この交流館の建物は関東大震災で被害を受け、昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りの「出桁造り」だそうだ。 柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、そこに軒や屋根を載せる江戸時代からの伝統的な建築方法らしい |
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小田原城を避けて通る東海道の様子や、町割りが当時を想像させてくれる | |||
箱根が7kmだ。 箱根のどこまでの距離だろうか。 静岡まで二桁になったことはうれしい。 しかし、遠い! |
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以前はなかったし、そのどぎつさが、たくましい商魂の表れかと思ってギョッとしたが、実はここが有名な「ういろう」である。 このデザインそのものが由緒あるものであることを、帰ってから調べて知った。 「東海道名所図会」の「小田原外郎」にも描かれている八棟造りが戦災で焼失し、最近復元されたという。 そもそも、歌舞伎十八番の「外郎売」で有名だが、14世紀に元から来朝して帰化した陳氏が、小田原北条氏に仕えたのだそうだ。 ういろうは仁丹のような丸薬で旅人の常備薬だが、接待用の菓子も「ういろう」といったという。 今は和菓子屋として繁盛しているようだ |
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向かい側にある小西薬局は、たいへん味わい深い建物である | |||
今回、ルート上から一瞬、小田原城が見えた。箱根口の近くだった | |||
上の写真は、諸白小路近く、箱根方面に向かって右側にある建物である。 実にユニークな雰囲気の建物であるが、どのような来歴があるのだろうか このように、道中、専門家に同行、説明をお願いしたくなる建物がとても多い |
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この東海道線、箱根登山鉄道線橋をくぐってから右の旧道に入る。 ますます箱根が近づいてきた |
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箱根登山鉄道を走る小田急電車。 この右手に箱根板橋駅がある |
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上方口見附跡から右に、旧道に入る。 とたんに時代が変わる。 板橋である。 こ旧道の奥、山側には多数の寺がある |
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延命子育地蔵尊。堂々とした本堂である | |||
上板橋で国道に出る寸前の箱根登山鉄道ガードである。ちょうど、小田急ロマンスカーがゆっくり通過していた。 我が家にNゲージ模型鉄道の昭和30年代をイメージしたジオラマがある。 そこに、新幹線のぞみ号を走らせたとき、なんとも不思議な光景が出現し、かえって新鮮さを感じたのだが、その時と同じ世界、同じ印象である |
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双子山が近づいてきた | |||
旧道は再び、風祭地区で国道から分かれる。 心を揺さぶられる街並みである |
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原則として、街道を外れずに歩く方針だが、鉄道の駅には立ち寄らざるを得ない。 旧道近くの風祭駅である |
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風祭、入生田地区は、日本橋を出てから、もっとも旧街道の趣を色濃く残している地域であろう。 この辺の街並みは、観光用に保存しているわけではなさそうである。 地元の方々の、素朴で、丁寧な生活の営みがこうした景観を維持しているのだろうと思う。 道の両側同時に展開する街並みの美しさは、大変貴重である |
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入生田駅 | |||
旧道に沿って見え隠れする箱根登山鉄道には、残念ながらあの懐かしい登山鉄道の車両は見かけない。 すべて小田急の車両である。三本の線路のうち幅の広い方を、登山鉄道車両が使うのだが、入生田から小田原までは真っ赤にさびている。 箱根湯本と小田原間は小田急が占領しているようだ。 この写真では登山鉄道用の線路も光っているが、これは湯本から下ってきて、入生田にある登山鉄道の車庫への出入りがあるからだ。 | |||
箱根湯本の街並みと畑宿に向かう旧道の三枚橋が見えてきた | |||
ここ、三枚橋が今回の終点である。予想より早く、午後1時03分に三枚橋に着いた。 やや歩き足らない感じがするが、かといって、山を登り始める気持の準備はまだ出来ていない。 二宮から16.2km、日本橋からは累計でほぼ90kmを歩いたことになる |
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帰り路、箱根湯本と小田原駅で | |||
数年前、仲間と行った湯本温泉の「はつ花」まで歩いて、昼食のそばを楽しむ。 生ビールは、今までで最高の味だと思うほどおいしかった。つまみには山菜を選んだ。 右上は新型の登山電車、「あじさい号」である。沿線のあじさいは、もう盛りを過ぎたかもしれない |
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湯本駅でやっと例の旧型登山電車車両と再会した。 やはり、こちらの方が断然格好が良い 帰りの乗車券は横浜までの分である。 実際には大船で横須賀線に乗り換えたので精算が必要だった。 いよいよ、今度は箱根越えである。 三枚橋から、畑宿、甘酒茶屋を経て元箱根、箱根峠を目指す |
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