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東海道五十三次を歩く
 その6 三島宿から吉原宿まで

  
第2部(原宿-吉原宿)

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海岸には、千本松原が涼しげに拡がっている、はずである。
その千本松原沿いの道路もある。その道は青空の下、美しい海と涼しい風で快適である、はずである。
でも、旧東海道にこだわる旅であるから、浮気することもできない。

一直線の道を、ひたすら我慢して歩く。
期待していなかったものの、予想外に晴れたのだから、ひょっとして富士のお山が拝めるのでは、とも思ったが、これだけは予定通りらしく、まったく顔を見せてくれない
原の宿に入った
「駿河の国に過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠」という、らしい。
その白隠禅師が生まれた原である。得度した松蔭寺である。

巨松、擂鉢松がある
右は、白隠禅師の句の良寛和尚による書である。 全く読めない。
左は、柳田聖山氏の歌

両方とも、正解を入手した。

この碑には関係ないが、江戸の俳人大島蓼太の句、
「涼しさや富士と和尚と田子の浦」
は分かりやすい
 
   ・・・・・ 放水 ・・・・・

広重の「原」を描いた絵は、永保堂版、行書版、隷書版とも富士山であり、三枚とも富士の頂が絵からはみ出している。
原と愛鷹山との間に、かつて湿地が広がっていた。 「浮島ヶ原」である。

胸まで浸かっての田植えなど、泥田との戦いが解決したのは昭和30年代になってからという。
今は、耕地化、宅地化されている。

写真は、その湿地の改良のために開かれた
人工の放水路であろう。
たしか、昭和第2水路と書いてあったように思う。

水路をまたいだ少年は、松原を背に、富士山に向かって放水している
格調を感じさせる家並みが続く
富士山はこちらである
 
並行する東海道線を踏み切りで越える。 ご覧の通り、まっすぐである
東田子の浦駅だが、海はどこにも見えない。今回のルートでは、 ずーっと海岸を歩いたのに、一度も海を見ることが出来なかった
「昭和放水路」である
旧道のすぐそばに、巨大な煙突や工場設備が迫っている。
製紙の町、吉原である
吉原駅のすぐ近くの踏み切りで、旧道は山側に移動する
突然現われた風景に驚いた。 プレジャーボートが係留されている。 スマートとは言い難い。 工場や煙突と奇妙なコントラストを作っているのが逆に印象的である
沼川にかかる河合橋である
昔とはその種類や強さが違うものの、今もかすかににおう製紙工場地帯を通り、大型トラックがうなって走る喧騒の国道を横切り、新幹線のガードをくぐると、一転して、街道の景色に戻る
ここは、左富士の名所である。東海道で左側に富士を見るのは、平塚宿の手前の鳥井戸橋付近と、ここ吉原だけだそうだ
左富士神社や左富士の碑もあるが、今、無残な景観である。
もっとも今日の富士のお山は、左にも右にもないから、怒らずにすんだ
 
 
 
・・・驚かせた水鳥
     驚かせた帽子・・・


平家物語の富士川合戦の条で、源氏の軍勢かと、平家軍を驚かせた水鳥の飛び立った沼の跡という。

その碑の前で、本日のファッションの紹介。
この帽子、たいへん不評である。 大黒様のようだとか、何だとか・・・。
紫外線対策、汗対策に技術の粋を集めた、若干高価な帽子なのだが・・・。

使用した結果は、たいへん快適であった。
でも、行き帰りの車中では、ザックの中にしまった


早く、菅笠を見つけたい。
 帰り路、岳南鉄道 吉原本町駅にて    page top に戻る
 ・・・・ 生ビール ・・・・・

好ましい、ローカル色豊かな駅であり、電車である。
岳南鉄道の吉原本町駅である。

問題は、生ビールを飲ませてくれる店が駅前にないことである。
この電車で移動したJR吉原にもなかった。 いや、一軒だけそれらしき店があった。 生シラスなどと書いてあるので、胸をときめかせたが、どういうわけか店は暗くて無人であった。 暖簾はかかっているのに。
 残念

仕方なく、熱海で途中下車して、伊豆半島ウォークのときに、同様の理由で飛び込んだ店に寄って、今回もさざえのつぼ焼きと生ビールで、一人、乾杯したやれやれ。

これで、日本橋から約140km歩いたことになる。

万歩計では、この日の歩数が、53,950歩で一日としては新記録であろう。 歩幅70cmとして、約38kmになる
今回は、疲れた。
  
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