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  旧甲州道中を歩く  
旧甲州道中 その

上野原-鶴川-野田尻-犬目-下鳥沢-上鳥沢-猿橋-駒橋-大月
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
上野原宿-鶴川宿 1.96 km 2.01 km 3,629
鶴川宿-野田尻宿 4.30 4.24 7,083
 野田尻宿-犬目宿 3.38   3.55   6,137    
犬目宿-下鳥沢宿  4.28   4.74   6,725    
下鳥沢宿-上鳥沢宿 0.60   1.33    2,059  
 上鳥沢宿-猿橋宿 2.89    3.24   4,658    
 猿橋宿-駒橋宿 2.40   2.25   3,361    
 駒橋宿-大月宿 1.80   1.37   2,258   GPSと歩数の大月宿は、大月駅前まで 
合計 21.61 km 22.73 km 35,910
日本橋からの累計 95.27 km 111.92 km 160,147 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
2015年5月
  
 
 
 
       
  
 上野原から鶴川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、駒橋を経て、大月へ
   
   
  
 
  破風板に特徴がみられるようだ。妻壁の木組みが歩き進めてどう変わってくるか楽しみである 
   
 
   
    
 
  鶴川宿。 静かで雰囲気のあるところだ。 次第に、軒(ノキ)の深い家が増えてきた  
   
 
甲斐は関東 ? それとも 中部 ?
 テレビの天気予報で、山梨県は「関東甲信越」として、あるいは「関東甲信」や「関東」として出てくる。ところが、小学校時代、山梨県は静岡県、長野県や愛知県と同じ「中部地方」であると習った記憶がある。山梨県は関東地方なのか、中部地方なのか、いったいどうなっているのだろう。

 先の衆議院議員の比例代表選挙では山梨県は神奈川県や千葉県と同じ南関東ブロックであったし、スポーツの世界では、選抜高校野球でも山梨県は関東地区にあり、また山梨学院大学が活躍する箱根駅伝は関東学生陸上競技連盟の主催である。電気は中部電力ではなく東京電力である、等々、生活の面では、名古屋よりも明らかに東京との結びつきが強いように思われる。首都圏整備法とその関係政令で、首都圏とは1都6県と山梨県と定められているから、実質的には関東地方に入っているといってよいのではないだろうか。とすると、中部地方に分類されるのは地理面だけということだろうか。

 その山梨県、甲斐の国は、甲府盆地を中心として山に囲まれたひとつの地域と思っていたが、実はそうではなく、大菩薩連嶺と御坂山地が連なる線で東西、二つの地域に分けられ、東側を「郡内」、西側を「国中」と呼んでいたという。今、歩いている「郡内」は、天気予報では「東部・富士五湖」と呼ばれている。大月、都留、富士吉田などの町がある。この郡内では、水は山中湖から桂川・相模川へ、また北部の山地からは多摩川へと流れている。だから、相模や武蔵との縁が強いようだ。一方、「国中」は甲府をはじめ、韮崎などが含まれる。この国中では、水は、笛吹川や釜無川を経て、富士川へ流れるので駿河と近い関係にあるという。この水系の違い、相模や武蔵に流れるのか、駿河に流れるのか、によって生活文化が異なる領域をつくってきたようだ。例の「まぶしい」の方言、「ヒドロシイ」は駿河湾から山梨全般に広がっていて、甲斐と駿河の結びつきを強く感じさせてくれたが、もう少し詳しく、別の切り口でみると、東の郡内は関東の方言「べー」ことばに属し、西の国中はナヤシ方言(長野、山梨、静岡)と呼ぶ東海・東山地域の「ズ、ズラ、ツラ」ことばであるという。この両地域にはこうした文化の違いがあって、実はその境界が「関東」と「中部」の境目である、ともいわれているようだ。法律で関東だ、首都圏だと決めても、文化の面ではそういう簡単な話ではない、ということだろう。
 
 もう少し調べてみると、この二つの地域はさらにいくつかに分けられて、それぞれは自然環境面だけでなく生活文化の面でも特徴があるという。例えば、西部の国中は、甲府盆地一帯と富士川流域の河谷地帯とにわけられるそうだ。富士川一帯は河内と呼ばれていたという。戦国時代の領有関係からくる多彩な歴史にも彩られているようだ。

 水系によって、地形によって文化が異なる原因は、古代からの交通手段、輸送手段に深くかかわっていたからだが、これまでの旧街道歩きで、それを考える際のキーワードが「塩」であり、その運搬経路や、内陸での「水運、舟運」がカギを握っていることも知った。今回も、甲斐でどうだったのか、この旧甲州街道との関わりはどうであったのか、など歩きながら調べてみたいと思う。

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<参考文献>

・飯田文弥ほか:山梨県の歴史、山川出版社
・萩原三雄:山梨県謎解き散歩、新人物文庫
・「まぶしい」塩の道と文化の十字路、(「ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く」より)
            http://www.masupage.com/nakasendo/omou/bunkanojujiro.html
・江戸を支えた川の路、(「ゆっくり・きょろきょろ 旧日光道中を歩く」より)
           http://www.masupage.com/nikko-osyudo/omou/kawanomichi.html
   
     
   
   
   
  
 ごく当たり前の形が美しい
     
 
  旧街道の雰囲気である 
   
 
  大きな軒(のき)が見事である。軒裏の構造がとても美しい 
 
   
   
 
巧まざる美
   
     
ここにもニ十三夜塔     
     
  
  
 
  
双体道祖神も登場
  
 
     
  
 
     
  
  この色、この形 
  
  
 
野田尻宿。 談合坂SAの裏にある、静かに宿場の雰囲気を残す
    
    
出桁造りによる大きくて深い軒と、出梁造りで張り出した二階は
信州の旧中山道沿いに似ている
 
   
   
  
  
  
  
  
 この静かな旧道のすぐ隣に、中央高速道が走る
遮音シェルターがあるが、タイヤ音が聞こえる。夜は大丈夫なのだろうか
   
  
   
 
 甲斐に入って、山梨県教育委員会による「山梨県歴史の道調査報告書」があるので、旧道のルートは判断しやすいが、現在も道が残っていて通れるのかどうかは、現地に行ってみないとわからないところもある。
 旧道への分岐点や、うっかり間違えてしまったところなど、注意すべきところは
上野原-大月のmapに表示した。参考にしていただければ幸いである
 
  
  
犬目宿への途中、「座頭ころがし」と呼ばれ、難所だった
  
  
 
       
 
   
 二階が張り出した「出梁構造」だが、支えの柱がある 
  
  
  
   
  
     
 山に囲まれた犬目宿。 右手前の家は、出梁構造で張り出した二階に格子も見える。
木曽路などの旧中山道に多く、洛中洛外図屏風などから、もともとは京の都に、ごく普通に
あった形である。京の文化がこの旧甲州道中のこの辺りにも伝わっていたようだ


 
 
  

 
 犬目から長い坂を下ってやっと下鳥沢宿へ。
屋根に換気用の櫓「気抜き」と深い庇の家が並ぶ

 
 
 
  千本格子も本格的である。下諏訪宿経由で下ってきたのか
  
 
   
  
 
この深くて大きな庇は何のためか。地元の方に聞くと、終戦後の大火で失われたが、この鳥沢宿付近には、かつて養蚕農家が並んでいた。この庇は、干し場として使うなど、養蚕作業のためだったそうだ
 
 
 
  こんな、町の工場ののような「気抜き」もある 
  
 
 
   
  
 
  
 
 
 
 上鳥沢宿 
 
  
   
 
 
   
  
 
 
   
 
 
 この先、藪が茂って道が塞がれて、突破に大変だった 
  
 
 
  旧道は猿橋を渡る
 
 
猿橋の木組みを下から観察した 
  
 
 
  
 
 
駒橋宿の雰囲気に、いつまでも浸っていたかった
 
 
    
 
 試運転のつもりで再開した旧甲州道中歩きの二日間。歩き終えることができた。
 ゆっくり充電し、次回はさらにゆっくり歩いて、つないでゆきたいと思う。
   
  

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