|
小仏から小仏峠、与瀬、吉野、関野を経て、上野原へ |
|
|
小仏峠頂上にて
|
|
相模の国に入り、相模湖をめがけて下る
|
|
緑が美しい ウグイスに「ホーホキョキ」と鳴くのがいる。三浦半島と親戚か
|
|
|
江戸のころの富士登山と大山参り |
今回、神奈川県内の旧甲州街道歩きでは、市販のガイドブックによって旧道のルートが違っているところがあって混乱した。結局、現地に行ってから、吉野宿で入手した「甲州道中案内図(吉野宿マップ)」に記載の旧道ルートを頼ることにした。いつも旧街道歩きでは、図書館から県ごとの「歴史の道調査報告書」を借り出して、沿道の歴史的遺構情報にとどまらず、旧道ルート判断の決め手として重宝している。これは文化庁の事業で、各県の教育委員会が調査してまとめた報告書である。ところが、なぜか神奈川県の報告書がない。調べてみると、神奈川県は2012年までに、歴史の道の調査が行われていない4府県のひとつであることがわかった。情報が不足した理由である。だから、というわけではもちろんないが、そもそも、相模の国は6時間あまりで通り過ぎてしまうほど、甲州街道での存在感は薄いと言わざるを得ない。だが、神奈川県に住む人間としては、多少でも、相模の国につながる話に触れておこうと思う。なお、現代の甲州街道の目玉である相模湖については、すでに前回のコラム「国鉄中央東線」に書いた。
甲州街道の大きな楽しみの一つは、富士山の雄姿を見ることである。都内の雑踏を抜けて府中あたりから、たまに現れる富士山の姿もかなり大きくなっていることに気づいたが、どうしてもビルに隠れてしまい、写真に残すこともできなかった。今回こそ大きくなった姿が見えるはず、と思ったのだが、小仏峠を越えても、空が霞んでいてまったく見えない。甲斐の国に入ると、北斎の「富嶽三十六景・甲州犬目峠」や、
|
葛飾北斎「富嶽三十六景・甲州犬目峠」
(犬山宿案内板より---
案内板の色が飛んでしまったようだ) |
広重の「富士三十六景・甲斐犬目峠」で有名な犬目峠からの富士を期待したのだが、残念ながらまったく拝むことができなかった。足を痛めて、さわやかな、空気の澄む時期に歩けなかったことが悔やまれる。
富士はいつの時代でも庶民の憧れであった。富士登山は、江戸から三十余里、甲州街道大月宿経由の2泊3日で登山口の吉田に着き、そこから登ることが多かったという。江戸後期の文化年間の記録によると、この吉田口の登山者が年平均で8千人、駿河側の三登山口からは合わせてほぼ同数というから、合計1万6千人ということになる。そして、庚申信仰とどうかかわっているのか知らないが、60年ごとの庚申の年(たとえば西暦1740年、1800年、1860年など)には、年平均の3~6倍というから、5万~10万人も登ったらしい。現代、平成26年度の夏季登山者(8合目で28万5千人)の3分の1ほどに相当する。1860年ごろの江戸の町方人口が約60万人弱、武家人口や寺社方人口を含めても江戸の人口が100万人以下(Wekipedia:「江戸の人口」のデータによる)という頃であるから、この富士登山者数は驚異的である。
さらに、江戸中期には関東一円で「片参り」を忌む風習が広がって、女神(木花開耶姫、コノハナサクヤヒメ)を祀った富士山だけでは片参りになるからと、富士登山の後に、男神(大山祇神)を祭神とする相模の大山を参詣することが流行ったという。順を逆にしたり、翌年に一方を参詣することもあったらしいが、いずれにしても富士山と大山をセットで登ったというのである。多くは、富士登頂後、吉田口に戻らずに、須走に下って御殿場から矢倉沢の関を経て大山に登ったそうだ。
当時、寺社参りで圧倒的な人気があったのは伊勢参りであったが、その他、江戸の周辺では、信州の善光寺、遠江の秋葉神社、相模の大山・阿夫利神社、武蔵の三峰神社、そして手近なところでは、川崎大師、江ノ島、鎌倉、成田山などがあった。これらの中で、伊勢参りや富士参詣が難しいときに気軽に参詣できるとして、もっとも人気があったのがこの大山だったという。御師による布教や参詣勧誘など、大山講という、強力な組織的活動によって、大山参詣は巨大な存在だったようだ。だから、今でもその証しが道標や講の記念碑として、相模近傍の旧街道のいたるところにみられる。その道は、田村通り大山道(藤沢から)、青山通り大山道(東京青山から三軒茶屋、溝口、厚木経由)、八王子通り大山道、府中通り大山道など、ちょっと数えただけでも20以上の大山道の名で残っている。
旧東海道での伊勢参りにまつわる数々の遺構、旧中山道での御嶽山信仰の跡、旧北国街道の善光寺の存在感、旧北陸道の白山信仰の名残なども併せると、当時の人々の信仰心の厚さに感心する。同時に、安心して旅ができる安定した世の中と、”抜け参り”さえ黙認された、江戸社会の余裕がうかがえる。しかし一方では、信仰に救いを求める、不安に満ちた時代でもあったのかもしれない。いずれにしても、旧街道を支えたのは、参勤交代の大名行列だけでなく、参詣旅行に情熱を燃やした庶民旅人だったようだ。
-------------------------------
<参考文献>
・さがみはら発見のこみち「甲州道中 吉野宿マップ」、吉野宿ふじや
・NPO法人ふじの里山くらぶ・相模原市立博物館
・飯田文弥ほか:山梨県の歴史、山川出版社
・池上真由美:江戸庶民の信仰と行楽、同成社
・Wikipedia:「江戸の人口」、「大山道」
・西川亮:文化庁「歴史の道」事業に関する研究、2014年 日本建築学会大会学術講演梗概集
|
|
|
|
中央高速道の姿や走るクルマの音がついて回る
|
|
小原宿本陣は、神奈川県内で唯一現存する本陣の建物である
|
|
旧道の雰囲気を残す家々が増えてきた
|
|
|
|
格子の家、出桁構造の家、出梁構造の家まで登場してきて驚いた
|
|
相模湖をつくる相模ダム 上流の桂川もここを経て相模川として相模湾に流れ出る
アユはこのダムを越えられないため、桂川のアユは放流魚のみという
|
|
|
|
|
|
|
明治29年の大火で五層楼の吉野宿本陣も消失したが、唯一残ったのがこの土蔵
|
|
|
|
|
|
山の中腹に、ラブレターらしき封筒。
藤野の芸術家村にある、アーティスト、高橋政行氏の作品「緑のラブレター」だという
|
|
久しぶりに、「イノシシ注意」、「クマに注意」に出会った
|
|
途中、消えてしまいそうで不安な道、藪で塞がれた道もあった。旧道に近い現代の道をたどるのは、なかなか厄介である。
今回は、事前に調べた神奈川県内の旧甲州道ルートが、資料によって異なるなどの混乱もあって、現地に行ってから、設定した予定ルートの間違いに気付くことが何度もあった。さらに、いつものことではあるが、歩いていての右折忘れ、左折忘れなどの単純ミスも多かった。これらのミスや、間違いやすく注意すべき地点などを、できるだけ 小仏-上野原の map と 上野原-大月のmapに表示したつもりである。参考にしていただければ幸いである。 |
|
|
|
|
|
|
うっかり国道からの左折を忘れて大きなロスをしてしまった。 元へ戻って坂を下ると、境沢橋に出た。
ここが、神奈川県と山梨県の県境である。 マタタビの白い葉が歓迎してくれた
|
|
|
|
この辺では、庚申塚よりも、圧倒的に「月待塔」、特に「二十三夜」塔が多い。 旧奥州街道もそうだった
|
|
どこにでもありそうな、しかし、郷愁を誘う風景である |
|
|
上野原宿に近づく
|
|
|
|
|
復活 そして ビールのうまさ第3位決定! |
足を痛めた後の、試運転を兼ねた久しぶりの旧甲州街道歩きで、第1日を終えた。小仏峠を越えた後の、繰り返しのアップダウンと、道を間違えての遠まわりは、まだ万全ではない身にこたえたが、無事目的地に着いて、家内にショートメールを送った。「歩けたよ。うれしかったよ」
泊まった上野原のヤドで紹介してもらった居酒屋(しゃるまん)に出かけ、いつものように瓶ビールで乾杯した。こごみのテンプラの美味を楽しみながら、もちろん地酒でも乾杯した。大月の「笹一」だった。店のマスターと若い男性店員さんとの、心地よい旧甲州道談義に花が咲いて、上諏訪まで完歩したら再訪すると約束した。
これまでの、旧街道歩きのビールのうまさ第1位は、蛤と白魚も楽しんだ旧東海道桑名宿の旅館である。そして第2位は碓氷峠を登ってたどり着いた、旧中山道、沓掛宿の蕎麦の老舗店だった。どちらも、長い一日を歩いて、くたびれ果てての一杯だった。忘れられないおいしさである。しかし、その後、なぜかランクインする美味には長く出会わなかった。旧中山道でも、旧北陸道でも、いくつもの難所を越え、くたびれ果てたことが数えきれないほどあったのに、である。
そして今回である。やっとビールのうまさ第3位が決まったのである。ここ、上野原のしゃるまんでのビールである。旧街道歩きに復帰できたうれしさと、ややこしい苦痛に耐えながら、なんとか予定した道のりを歩くことができた満足感がある。だからだろう、よく冷えたビールは、実にうまかった。とにかくうまかった。 |
|
|