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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その

早月加積(はやつきかづみ)-滑川宿-東水橋宿(富山市)-東岩瀬宿
  
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区間 宿場間計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
魚津宿-滑川宿 8.45 km 4.47 km 6,974
GPSと歩数は早月加積-滑川間(魚津-早月加積は前日分に算入)
滑川宿-東水橋宿(富山市) 3.37 3.49 5,687 滑川: 養照寺前
東水橋宿-東岩瀬宿 8.15 8.16 12,714 東岩瀬:御旅屋跡(富山商工会議所岩瀬支所付近)
合計 19.97 km 16.12 km 25,375
高田宿からの累計 130.12 km 147.11 km 220,741
追分宿からの累計 264.75 km 294.40 km 432,810 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2011年5月
   
早月加積 ( はやつきかづみ )より 滑川宿、東水橋宿を経て、東岩瀬宿まで
  
 旧東海道でも、旧中山道でも、関心の一つは街道沿いの文化であった。京の文化が街道を下る様子が手に取るように見えるような気がするのである。東海道では、逆に江戸からの文化も上って、両文化がどこかで交流し、融合しているのではないかと推測して楽しんだ。中山道では、プラスアルファの文化ではなく、生きてゆくための工夫そのものが文化であったことを実感した。
 この旧北陸道も、富山の呉羽丘陵を越えるところに来て、そろそろ加賀の文化、京の文化が見えてくるころである。と思ったとたん、滑川宿ではベンガラ格子や典型的な商家造りなどが街道に現れた。これからが楽しみである。
    
ベンガラ格子が現れて驚いた  加賀の雰囲気、京の都の香りが北陸道でここ、滑川まで来ているようだ  
   
   

  
  
  剣岳  早月加積から歩き始めて間もなく、朝6時50分ごろ 
300mm望遠ズームで撮影 前日と山の形が変わって、歩いた実感が湧いた
  
   
左~中央の遠くに 別山、立山、雄山   右が大日岳    早月加積より撮影 
  
  
立山鑑賞スポットだろう  常願寺川 今川橋より
  
  

  
山座絵図で山名を確認
 越中の北陸道を歩くにあたって、大学時代にお世話になった先生から貴重な本をいただいた。昭和53年に、富山の北国新聞社から出版された一風変わった本である。 越中山座同定グループ編の「越中山座圖巻」である。富山県の各地から見える山並みを、山々の名前といっしょに絵巻風、屏風画風に、長尺に描いて折りたたんだものである。どこから見た山並みかが書かれていて大変便利である。手書きの図とエッセイ風の説明で、温かみがある絵図である。



越中山座同定グループ編 越中山座圖巻
北国新聞社 (昭和53年)

 高い山は遠くから見るのが良い、などと云っているくらいだから山の名に詳しくなく、車窓から眺めてはもどかしさを感じていた。だから、今回こそはとこの本のコピーと、現代の山座絵図といえる「カシバード」によるCGをプリントして出かけた。街道沿いの見通しのきくところで山の名を確かめ、あるいは写真を撮って、あとで確認した。


     カシミール3D 「カシバード」 朝日岳~白馬岳 ページその6のパノラマ写真撮影と同じ場所を指定したCG


カシミール3D 「カシバード」 剣岳~大日岳など このページ上部にある剣岳、大日岳などの写真の撮影と同じ場所を指定したCG

 剣岳をはじめ、見えるはずの山のほとんどを見ることができたものと思う。長年の望みを果たして幸運であった。 良い季節を選んだことと、予め、天気予報でしっかり確認した成果でもある、と思っている。

 これらの山々や、山を背景とした田植えの風景、散居村の屋敷林など、人と自然の関わり合いがすばらしく、これを味わうだけでどんどん時間が経った。 もっとじっくり写真を撮りたいと思う場面が次々に登場した。歩く旅ゆえ気ままに撮れるのはありがたいのだが、なかなか先に進めないからそうもいかない。 三脚がないのも残念である。しかし、季節と天気に恵まれて、自分にとってよい記憶と記録が残せて幸いであった。このページの翌日の朝、活躍した一眼レフと交換レンズ3本を自宅に送り返した。 見事な山々が次第に遠くなったから、残りは身軽に歩こうとコンパクトカメラだけを持ったのである。


  
滑川で、街道の商家建築の集大成的な建物に出会って、これにも驚いた。 「出桁造り」と「霧除け(幕板)」、「蔀戸(しとみど)」、「袖うだつ」、もちろん2階に格子もある。 旧東海道の庄野宿、亀山宿、関宿など、そして旧中山道の木曽路や美濃でよく見た構造の組み合わせである
    
     
  
  
常願寺川河口  今川橋から  
  
 
東岩瀬宿は曳山車祭の前日であった.。ここは北前船の廻船問屋で賑わった町である。この岩瀬は港と宿駅を兼ねたところで、まさに、海の街道と陸の街道、両方の宿場であったことになる。東海道や中山道にはない、海の北陸道の特徴を示し、その豊かな文化が、街並みや祭に残されている。保存、復原されて、北前船のころを想像させる街並みは見事である

 
   
   
   
   
  
   
  
   
廻船問屋 森家
   
「越の国」気質
 書物を読むと、今の福井県から新潟県の信濃川あたりまで、古代には「越(こし)」と呼ばれていたことがわかる。「高志」とか「古志」とも書かれたという。そういえば、「高志」は古事記に、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主命)が高志国の沼河比売(ヌナカハヒメ)を妻問いした話として出てくる。中越地震で有名になった「山古志村」も思い出したし、今回歩いた富山市の岩瀬浜近くには「古志の松原」という美しい松原がある。「越」は蝦夷地だった、あるいは蝦夷地への入口だったいう説があるらしいが、稲作が広がる5,6世紀ごろには出羽や北海道あたりまでを「越」と呼んでいたようだ。越前、越中、越後には7世紀半ばから分かれ始めて、現在の3県の地域に定着したのは8世紀半ばらしい(富山県の歴史、前出)。なお、加賀はずっと後の室町時代までは、越前に付属していたそうだ。

 16世紀に書かれた人国記で、越前、越中、越後の人の気質の違いを読んでみると、思わず吹き出してしまう。
  ○「上から下まで弁舌に長けるが、高慢で底意地悪しく、軽薄である」などと散々な越前人、
  ○「やせ我慢をしつつも積極的、現実的に生きようとする」越後人に対して、
  ○「陰気のうちに智あり、勇あり、佞なるところ多し」とあるのが越中人である。

 この越中人の気質は、よく知られているようで、中世後期に加賀の一向一揆と越後の上杉の間にはさまれ翻弄されたことによるとも云われる(富山県の歴史:山川出版社)。曹洞宗や一向宗などの進出により、支配層だけでなく、民衆の立場も激しく揺れ動いて翻弄された。こうした点は三つの国に大体共通しているようだ。しかし、その土地の支配者の個性に加えて、都からの距離や地形、風土も影響し、それぞれは異なる展開を経て、文化面に個性を生んだようである。この先、越中から加賀、越前と歩きながら、文化の個性がさらに見えてくると嬉しいのだが。

  
旧友と地酒を飲み過ぎて、二日酔いでの3日目であった。
予定を短縮して、今回の最終日である明日に備えることにした

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