home
ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その

下立(おりだて)-三日市宿-魚津宿-早月加積(はやつきかづみ)
  
旧北国街道・旧北陸道を歩く トップページ (目次)
前の宿へ      次の宿へ
区間 宿場間計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
船見宿-三日市宿 13.10 km 9.91 km 14,227
GPSと歩数は下立-三日市間(船見-下立は前日分に算入済み)
三日市宿-魚津宿 8.79 9.83 14,194
魚津宿-早月加積 - 4.14 6,205 早月加積:駅入口
合計 21.89 km 23.88 km 34,626
高田宿からの累計 110.15 km 130.99 km 195,366
追分宿からの累計 244.78 km 278.28 km 407,435 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
 map   
2011年5月
   
下立(おりだて)から、三日市宿、魚津宿を経て早月加積(はやつきかづみ)まで
 富山県に入って三浦半島の自宅から遠くなった上、昨日は強風による特急の遅れで、今回の出発地点である泊からのスタートが午後になってしまった。今回、泊から魚津に向かう旧北陸道には三つのルートがある。右の地図は、富山県教育委員会調査資料による泊から魚津に至る道を示したものである。読みにくいが、ここで赤い三角形をつくっているルートのうち、右辺の「官道」を南下することにした。 もともと中世の北陸道は、三角形の上辺で示す入善道を通っていた。黒部川の河口付近は、この地図でも扇状地が膨らんでいることが分かるが、四十八ヶ瀬と呼ばれる複雑な川筋で出水が絶えず、旅人が難儀したため、加賀藩は上流に愛本橋を架けて新たなルートを開拓した。これを上往還と名づけ、加賀藩はこの道を「官道」に指定したのである。北陸道は「五街道」には指定されていなかったから、江戸幕府ではなく、加賀藩が管理していた。この旧北陸道歩きのページのmap(その5)を見ていただきたい。その表示を上部にあるボタンで「航空写真」や「地形」に切り替えて見ていただくと、この官道が山際ぎりぎりまで行って、黒部川が狭くなったところを渡っている様子がよくわかる。
 なお、松尾芭蕉の「おくの細道」の旅は、親不知から市振に出て、ひとつ家に遊女と寝たあと、越中に入って泊からは「くろべ四十八ヶ瀬とかや、数しらぬ川をわたりて・・・」と書いている。 四十八ヶ瀬を通る入善道(下往還)を歩いたのである。上往還に較べると一里半も近かったから、水の少ないときにはこちらを通る人が多かったという。


富山県教育委員会 
 富山県歴史の道調査報告書-北陸街道- p.12
   
   
   
   

左に朝日岳、 中央に小蓮華岳、鉢ヶ岳   右に白馬岳、旭岳、一番高く見えるのが清水岳  宇奈月町浦山付近の旧北陸道より 

  
越中の人と自然と文化 富山弁
 東西文化の境界線といわれる糸魚川、親不知を過ぎ、東西の文化の違いを探していたが、なかなか実感できないでいた。そんなとき、越中に入って魚津に泊ったのだが、居酒屋で、採れたてのキューリを籠にいっぱい入れて店に入ってきた地元のおじさんと店の親父さんが始めた会話が、何を話しているのかまったく分からない言葉なので驚いた、というよりショックを受けた。調べてみたら、富山弁は東西の方言(関西弁と東北弁)が入り混じっているそうだが、それだけでなく、富山市を流れる神通川とそのすぐ西の呉羽丘陵を境としてその東側を呉東、西側の呉西、さらに庄川の上流地域を五箇山と呼んで、この三つの地域で使われる言葉が違っていることが分かってきた。全く聞き取れなかった富山弁は、例えば、こんな具合だ。

・乗らんまいけ (乗りましょうか)
・なーん、こ、だちぁかんわぁ (いや、これはもう駄目だ)
・か、なんちゅでかいと人おるがいねー (こりゃ何てたくさん人がいるんだろう)
・俺がだいてやるわい (俺が払うよ)
・ちんちんかかれんか! (正座しなさい!)
    
(日本の方言 富山県富山弁:http://homepage1.nifty.com/zpe60314/kotobahogen9.htm より)

 これではおじさんと親父さんの話が分かるはずがない、と合点した。呉東、呉西そして五箇山では言葉だけでなく、文化も違うという。そういえば、富山では正月の餅は丸餅ではなく、四角い切り餅を使うと聞いたが、京文化の色彩が強い加賀の文化が伝わっている越中で、東の餅が使われている不思議を感じた。これも、恐らく呉羽山を境としながら、実際には丸と角が混在しているのではないだろうか。近くの飛騨高山では正月の雑煮には角餅を使うそうで、それは幕府直轄地だったから、と高山出身の友人から聞いた。越中から飛騨へは盛んに鰤(ぶり)が運ばれたから、そのルートで逆に富山には角餅が伝わったのだろうか。親不知を越えて角餅文化の越後から来たと考えるよりも自然であるように思う。信州の塩尻、諏訪あたりは文化の十字路であったが、ここ越中は文化の三叉路か。いや、海の街道として、北前船が北海道や下関、大阪とこの越中を繋ぐ大動脈であったから、やはり文化の十字路であろう。三陸路一海路の文化の交差点である。

 居酒屋で、そのキューリのおじさんと話がはずんで盛りあがった。つまんでいた地魚を前に、富山県の魚をほめるつもりで、以前行った氷見の魚がおいしかったと話したら、氷見よりも魚津の魚がうまい! なんといっても、立山から海に流れ込むいい水があるから、と自慢された。氷見は呉西、魚津は呉東であり、その対抗意識があったのかもしれないと後で気づいた。蜃気楼といい、ホタルイカといい、埋没林といい、立山からの清冽な水があってのことで、このあたりの文化に山からの水が大きく影響している。呉東の誇りであるようだ。酒がはかどると、さらに急峻な山を下る鉄砲水の功罪、そしてそれを防ぐダムの功罪についてもおじさんの話が続いた。


  
    
   
  
 
  
この辺りに、散居村が広がっている map で地図や航空写真を見ると散居村の特徴がわかる
mapの上部ボタンで「航空写真」を選び、左のスライダーを上から4番目程度にして拡大、右のマーカーリストにある
「散居村を行く」をクリック
  
  
  
  
毛勝山    黒部市の北陸道が黒瀬川を渡る地点から
僧ヶ岳を見て走るJR北陸線
魚津海岸 米騒動発祥の倉庫    map 参照
早月川・早月橋より
残念ながら蜃気楼は出なかった
剣岳のある風景   早月加積付近
  
残雪の山並みと水田を背景にした不動明王
表現が難しいほどの美しさに感動しながら、この夜、20数年ぶりの友人と旧交を温め、越中の味と酒を楽しんだ

 map
前の宿へ                 次の宿へ
page top に戻る
北国街道を歩く トップページ (目次)

home