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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 23

関ヶ原宿-今須宿-柏原宿-醒井宿-番場宿-鳥居本宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
関ヶ原-今須 3.9 km 3.6 km 5,934 関ヶ原:関ヶ原駅入り口
今須-柏原 3.9 3.3 5,438
柏原-醒井 3.9 4.7 7,875
醒井-番場 3.9 3.7 5,339
番場-鳥居本 4.0 4.4 7,722
19.6 19.7 32,308 鳥居本:鳥居本駅入り口
日本橋からの累計 462.1
km 480.4 km 672,857
 route_map
2008年11月
  

関ヶ原宿から、今須宿、柏原宿、醒井宿、番場宿を経て鳥居本宿まで

  
 田植えが済んだばかりの、みずみずしい緑の中を関ヶ原に着いたのだが、美濃を抜けて近江に入るのは、晩秋になってしまった。 珍しい楓並木が、まるで待っていてくれたように華やかに色づいていた。

 鈴鹿峠を越えて、土山宿から近江入りした旧東海道歩きのとき、ベンガラ塗りの連子格子に、都の近さと近江の文化を感じたが、寝物語の里から入った今回も同様で、同じ香りをたいへん懐かしく思いながら、あの時の印象が間違いではなかったことが確認できて安心した。

 東海道のときには、歩いたキロ数や、京都まで残る距離を計算して楽しんだのだが、今回は二度目のせいか、数字を気にすることが少なかった。 しかし、木曽路、美濃路と歩いてきた中山道も、そろそろ大詰めである。 うれしさよりも、さみしさの方が数段大きい。 今回、三本の交換レンズを持ってきたのも、名残惜しさからである。 
      
    
  
  

近江の国のイメージ

その1  近江商人の国

   
 寝物語の里を越えて、ついに近江に入った。 旧東海道歩きでは、鈴鹿峠を越えて土山宿から近江に入ったのだが、ベンガラ格子が登場するなど、都の雅に近付いたことを実感したことを記憶している。 琵琶湖を取り巻く多くの街道が、交錯しながら京に向かい、都の文化がこの近江に浸みだしてくる。 近江の国のイメージとしてこの都の香りは当然だろう。 しかし、都に近いだけが近江のイメージはではなさそうだ。

 近江が好きだという司馬遼太郎は、「街道を行くシリーズ・近江散歩」(朝日文庫)で、「近江の村のたたずまいも、かつてはよかった。 無名の村寺なども、微妙な屋根のスロープが他の地方とちがっていて、なにか決定的な美の規準をもっているように思われた」 として、これは叡山という建築物群によって大工の技量や感覚が他とは違うからだ、と説明している。 また、近江人の物腰がいいとか、ことばづかいが丁寧で、これは「近江門徒」 という浄土真宗による精神的土壌から来ている、とも書いている。 今、東京でも使われる 「・・・させていただきます」 ということばの使い方は真宗から出たもので、近江商人は同時に近江門徒であったから、江戸の得意先の玄関で、このような語法が使われていたそうだ。

 その近江商人の出身地の分布を調べるために、現代の、しかし、やや古い地図を眺めていて気づいた。 琵琶湖東岸の行政単位であるいくつかの郡が、三重県との境にある鈴鹿山脈側から西の琵琶湖方向に広がるのだが、湖岸に近づくと、争いながら手を伸ばし、やっと琵琶湖にタッチした、と思われるような地割となっているのだ。 たとえば、大商人をもっともたくさん輩出した五箇荘町がある神崎郡は、愛知郡と蒲生郡の間に挟まって細長く伸び、かろうじて湖岸に達している。 おそらく、古くから、土地の支配者は琵琶湖の資源や琵琶湖を使う運輸ルートがきわめて重要であったから、必死に湖岸を確保したのだろう。 しかし今、町村合併によって、神埼郡は消滅し、蒲生郡は分断されて琵琶湖に近い飛び地さえも湖岸から縁を切られている。 五箇荘町は今、東近江市の一部になった。 行政の事情も、琵琶湖のもつ意味もすっかり変わってしまったようだ。

 近江商人は、 この国を語るときに必ず出てくる、大きな存在である。 蒲生氏郷の近江から松坂への転封と行動を共にして成功した三井家の越後屋など多くの松坂商人も、源は近江商人にあった。 近江商人にも、地域名から、五個荘商人、八幡商人、日野商人、などと呼ばれ、それぞれの個性があるそうだ。 伊藤忠兵衛や堤康次郎(生まれは愛知県) などの有名人だけでなく、実に多くのすぐれた実業家が育ったことがわかる。 青い目を持つ兄弟の近江商人も有名だ。 その豪商たちがつくった町並みや町の雰囲気が、色濃く残っている。 五箇荘や近江八幡の新町通りは特に見事である。

 古く、近江商人の創業よりやや早い時期、15、16世紀のころに書かれたらしく、武田信玄も愛読したという 「人国記」 によれば、近江の国は、「賢佞の間を兼ねる風儀なり。 然りと雖も賢智の人を聞くことなし。 佞人多かるべきなり。 身持ち上手にして、人に非を打たるべき事を言葉にして顕はさずして、非を隠して善を説く。・・・・」 と微妙な表現である。 後半部分は近江商人の誕生と成功の気質が見え隠れしているようにも思える。 しかし、そもそも倫理観こそが近江商人の成功の最大の秘密なのだ、と、しかられるかもしれない。 「三方よし」 が近江商人の理念である。 「売り手よし、買い手よし、そして世間よし」 というわけだ。 経営の理念はきわめて近代的であり、実に日本的でもある。 昨今のニュースを見ていると、この理念を、今、改めて国際的に強く訴えたいと思ってしまう。
 
    
   関ヶ原宿から今須宿を経て柏原宿、醒井宿へ
          
寝物語の里 を越えるとさっそくベンガラ塗りの登場である
 
まるでこの時期に合わせてここを歩いたのだ、と云いたくなるほど、楓並木が燃えていた。 街道の楓並木はめずらしい。旧東海道の箱根宿では楓並木があったらしいのだが、明治のころに、道路の拡張工事で切られてしまったらしく、今、一本の古木が残るだけであった。 この柏原宿付近の楓は、逆に、もともと松並木であったものを、明治のころに楓並木として植えたらしい

   
  
     落ち着いて、旧街道の雰囲気が強く残る柏原宿
    
  
「無名の村寺なども、微妙な屋根のスロープが他の地方とちがっていて、なにか決定的な美の規準をもっているように思われた」 と、司馬遼太郎が近江散歩に書いているが、左の民家の屋根にも微妙なスロープがある。 
  曲り木を利用した入口の棟木とベンガラ塗りの組み合わせは、近江独特ではないだろうか
  
  
 醒井宿を流れる地蔵川は、澄んだ水にバイカモがそよぎ、ハリオという名の冷水に住む珍しい魚もいるらしい。 この川に降りる石の階段がいたるところにあり、澄んだ流れを生活に利用してきた面影を残し、その雰囲気が実にすばらしい。 意表を突かれた美しさである
  
  
醒井宿から、番場宿を経て鳥居本宿へ
  
 
 番場宿 
  摺針峠の下り道 まもなく鳥居本である
    
  鳥居本宿 赤玉神教丸 の店
 300年以上も赤玉を売っている店である。参勤交代の大名や旅人に、道中用の胃腸薬として重用されたという。 建物は宝暦年間というから、250年以上前に建てられたものだ。
 鳥居本は道中合羽の名産地である。 夕闇の迫るころ、現代の道中合羽を着て、この合羽の町に到着した


      
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