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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 24

鳥居本宿-高宮宿-愛知川宿-武佐宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
鳥居本-高宮 5.9 km 7.4 km 10,522 鳥居本:駅入口
高宮-愛知川 7.9 9.2 14,284
愛知川-武佐 9.8 12.8 17,633 カシミールのkmには五箇荘散策を含む 武佐:駅前
23.6 29.4 42,439
日本橋からの累計 485.7
km 509.8 km 715,296
 route_map
2008年11月
  

鳥居本宿から、高宮宿、愛知川宿を経て武佐宿まで

  
 彦根のホテルを6時過ぎに出て、近江鉄道鳥居本駅から再出発した。 武佐まで、中山道はほぼ南下する。 しかし、江戸時代、将軍が上洛するときには、鳥居本からこの中山道を外れて、野洲までは琵琶湖岸に近いルートを取ったという。 家康が勝利して上洛するときに通った縁起の良い道で、彦根、安土、近江八幡など、豊かで変化に富んだ道だったそうだ。 参勤交代の大名には通らせなかったらしいが、将軍が交替したときに派遣されてきた朝鮮通信使一行だけは、このルートを通したそうだ。 だから、この琵琶湖沿いのルートは、朝鮮人街道と呼ばれている。 琵琶湖を望むことのできるこの街道も楽しそうだが、旧中山道にこだわる旅であるから、淡々と中山道を歩いた。 もちろんこの旧中山道の方が、今、味わい深いに違いない。
 
 この日の終点、武佐からは、近江鉄道で近江八幡の中心街のホテルに泊まって、翌日は近江八幡散歩をすることにした。 五箇荘に続いて、近江商人の色彩が残る街を楽しむためであり、琵琶湖をひとめ見るためでもある。
      

 関ヶ原を出て以来、中山道は東海道新幹線や名神高速道と、つかずはなれず、交差を繰り返しながらも、ほぼ並行している。 静かな街道の町並みにどっぷり浸って歩いていると、突然、ビヤンビヤンビヤン という音に驚かされることがたびたびあった。 しかしなぜか、田園風景の中で、遠く白い帯が矢のように走る姿を見ると、爽快な気分にもなった。  高速道路の方は、延々と無機質な壁が続いているだけで、どこで見ても邪魔ものでしかなかったが
  
   
  
  
  
  

近江の国のイメージ

その2  里山の国

   
 漁師の三五郎さんが、ヨシの茂る琵琶湖の内湖で田舟をあやつって漁をしているNHKの美しいハイビジョン画像を記憶している人も多いと思う。 田舟が船着き場に戻ると、青サギがやってきて待っている。 三五郎さんが鳥たちのために、獲った魚を箱に残してくれるからである。 自宅の、「かばた」 にはひょうきんな顔をしたヨシノボリが春を待っている。 水中カメラのクローズアップが面白い。 その「かばた」では三五郎さんが鮒寿司をつくっている。

  都の香りでもない。 近江商人の文化でもない。 しかし、近江といえば浮かぶこの光景である。 棚田があり、水がある、里山の世界である。 この 「里山」 という言葉も、もともと近江で生まれたそうだ。 名付け親らしい写真家の今森光彦さんの写真集を、今、手許に開いている。 人と自然が溶け合った美しい里山あるいは里地の景色に、あらためて感動する。 1年前に東京のデパートで行われた写真展を見たときに、記憶にあった三五郎さんが写っていたのでとても驚いた。 実は、印象深かった、あのNHKの番組は、今森さんの協力によって150日間もかけて撮影されものだったのだ。

 琵琶湖はいうまでもなく日本で一番大きい淡水湖だが、その大きな湖を滋賀県が独り占めしている。 だから、近江の人の暮らしは琵琶湖に大きくかかわっている。 しかし、琵琶湖の東側を草津から歩いた東海道では、残念なことに、街道からは琵琶湖が見えなかった。 大津の唐津大橋でやっと見えると思ったのだが、下流にある新幹線や国道の橋が邪魔だった。 今回の旧中山道こそは、鳥居本宿に出る直前の摺針峠から湖面が見えるのではないかと期待していた。 峠には茶屋本陣が今も残っている。 朝鮮通信使が書に残したことで名が付いたという 「望湖亭」 である。 和宮も明治天皇も休憩したという。 広重の木曽街道六拾九次の鳥居本の図にはこの望湖亭が描かれ、そのすぐ下に湖が迫っている。 しかし、今、湖面は遠い。 望湖亭からは今も見えるらしいが、街道から直接見ることはできなかった。

 昔からそうだったわけではない。 司馬遼太郎は 「近江散歩」 に、その辺の事情を書いている。 いや、たいへん怒っている。 もともとは江戸のころから始まったらしい埋立てだが、戦後の、「埋立てを善とする」 政治が、膨大な土木力を使って琵琶湖東岸の内湖をことごとく埋めてしまったことへの腹立ちである。 わずかに、近江八幡の 「西の湖」 などを残すだけとなってしまった。 その憤懣をぶつけるために 「近江散歩」 を書いたのではないかとさえ思える。

 だから、残念ながら、琵琶湖そのものも、その周辺に残る里山の美しい光景も、中山道歩きでは味わえそうにないのである。 近江の国のかなめである琵琶湖をひとめも見ずに帰ることがあまりにも残念なので、翌日、寄り道して近江八幡の八幡山に登ることにした。 眼下に広がる湖や、独特の形の山が点在する近江平野を、さらに遠くに比叡山を見ることもできて、やっとホッとした。 残った内湖の西の湖や、人工的な角型の区画の中のヨシ原とおぼしき褐色の帯も間近に見える。 しかし、この日、12月1日から冬の休業期間に入ったとのことで、手漕ぎ船による水郷の遊覧はできなかった。

 ときをあらためて、里山がしっかり残る、美しい湖岸をめぐる旅をしたいと思った。

    
   鳥居本宿から高宮宿、愛知川を経て武佐宿へ
          
早朝の、無人駅である。ここが本日のスタート地点である
   赤玉・神教丸の店もまだ眠っている
   
  
   
    
 近江に入って格子の形も色も多彩になってきた。 美しい 
 
 
  
  高宮宿
  
   
       
  
  
愛知川宿
近江商人の旧田中新左衛門邸が 「近江商人邸」 なる料亭になっている。
 回遊式の庭園がよい、(らしい)

    
  
 川の名も愛知川  湖が見えないかと期待したが、河口はまだだいぶ先のようだ
  
現役の茅葺きやその上に覆いをかけた家がかなり見られる。 
中山道をここまで来て、これだけ多かったことはなかったように思う 
 
 
   
五箇荘
 「てんびんの里」 と呼ばれる五箇荘は、近江八幡、日野とともに近江商人を輩出してきたことで知られる。 明治13年には、全戸数の三分の一にあたる67戸が呉服、太物などの繊維製品を扱う商家で、13戸は県外にも出店していたという。 広大な敷地を板塀で囲み、切妻や入母屋造りの母屋や土蔵が建てられ、日本庭園を持っているという。 農家の住宅では、草葺きであった。 
 「かわと」、「あらいと」 など、水路の水を引き込み、生活用水に利用しているとのことで、里山の風景はこの五箇荘にも生きているらしい。
   ( 東近江市観光協会 五箇荘支部発行の小冊子、「五箇荘近江商人を知る」 の「金堂の町並み」 から )

  
  
中山道を外れて、五箇荘の近江商人の町を歩いてみた (ルートマップ参照)  
   
    
  
中山道に戻る
左いせ 右京道 とある  遠くに新幹線が走っている
    
  
  
  
武佐の町は、正面の低い角度からの強烈な西日で、目を開けていられないほどであった

 ここ、武佐で、今回の中山道歩きを終了し、明日はさらに近江商人の面影を求め、また、琵琶湖をひとめを見るために、近江八幡散歩をする

 
京都三条大橋まで残すところ、たった約45キロメートルになってしまった

      
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