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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 18

美濃坂本-大井宿-大湫宿-細久手宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
中津川-美濃坂本 9.8 km - km - 中津川-美濃坂本間は前日に終了
美濃坂本-大井 4.5 6,631 美濃坂本:坂本立場跡・馬の水飲み池前
大井-大湫 13.7 13.7 21,014
大湫-細久手 5.9 7.6 10,763 カシミールにはルート間違いのロスを含む
29.4 25.7 38,408 前回分と合わせたカシミールの中津川-細久手間は32.1km
日本橋からの累計 364.2
km 374.6 km 514,950
  route_map
2008年5月
  

美濃坂本立場から、大井宿、大湫宿を経て細久手宿まで

  
 中津川宿では、すでに美濃らしい立派な卯建のある建物が目立つようになり、さらには、塗込め連子窓のつし二階建てまで登場するなど、木曽路を抜けたとたんに、中山道も京都の文化圏に近づいてきたことが感じられるようになった。 東海道で感動したため、その視線で見てきた中山道であったが、ここまでは違う世界がずっと続いていた。 だから、とうとう現れた、という気持である。 そして、そろそろ旅が終盤に近付いてきたことを物語っているともいえそうである。

 だが、もうしばらくは、美濃の山中に分け入ることになる。 碓井峠や和田峠をクリアーしてきたのだから、たいしたことはないだろう、という軽い気持ちで大井宿から十三峠に向かったのだが・・・・・
  
    
   
   
  

十三峠の西行と芭蕉
   
 三浦半島の東海岸に、久里浜から野比に向かう小さな峠がある。 今、旧道は消えて、国道だけになったが坂道の名を「尻こすり坂」という。 地元では「しっこすりざか」と呼ぶ。 急坂を下る馬が尻をこすったというのだ。 これとよく似た名の坂が、美濃中山道が平地に出るところにあった。 「牛の鼻欠け坂」だ。 こちらは急坂を上る牛である。 坂の名には面白いものが多い。 地元の人たちや、旅人の難儀から生まれたのだろう。

 「十三峠におまけが七つ」というのだそうだが、そのきつさは予想外、予定外だった。 この、ゆっくり・きょろきょろ中山道歩きのトップページにある全ルートの標高図を見ていただけばわかるが、せいぜい500メートル余りだし、標高差も他の峠にくらべてたいしたことはない。 しかし、急坂を登り終えると、すぐに急な下り坂になり、終わるとまたすぐ上り坂である。 これを13回、いや20回繰り返すわけだ。 読み直したガイドブックには「中山道の難所であった」 と書かれているが、今も立派な難所である。 現代の山男の皆さんでもきつかったと聞いて、安心したのだが。

 その十三峠の坂に、いろいろな名がついている。 スナップ写真と説明を載せたルートマップのページに、いくつかを紹介した。 女性の着物の裾が乱れた「乱れ坂」、巡礼者がその水で一命を取り留めた8月1日だけは必ず湧き出たという清水のある「巡礼水坂」、うしろから湧く水がお尻を冷やしているように見えたという尻冷やし地蔵の 「地蔵坂」 など、急坂のつらさや、木曽路には豊富にあった水場がなくて、苦労する旅人の様子が坂の名に滲んでいる。 

 二度目の奥州への旅の帰路、日本海側を通って信濃から美濃に入り、恵那で晩年の三年間を過ごしたという西行法師ゆかりの場所も多く、十三峠も西行坂で始まる。 どこの街道でも、厳しい峠道には、歌碑や句碑が多い。 峠の厳しさに、思うことも多いのだろう。 必ずしもそこで詠まれたものだけではなくても、後世、難儀した峠道への思いも込めて建立することが多かったようだ。 西行と云えば、忘れることのできない、「年たけて又越ゆべしとおもひきやいのちなりけりさやの中山」 の小夜の中山峠には、芭蕉など、この歌への思いをつづった句碑も多かった。 この中山道の西行塚にも、西行の歌碑

             待たれつる 入相の鐘音すなり
                     あすもやあらば 聴かむとすらむ

そして、芭蕉の句碑が並んでいる。

             西行の わらじもかかれ松の露

 十三峠、紅坂(くれないさか)の下に芭蕉句碑群の標識がある。 近くの新明神社に、その句碑群はある。 

             山路きて なにやらゆかし すみれ草 (芭蕉)

急坂にあえいでいると、澄んだホトトギスの声は、まるで励ましてくれているように聞こえるし、道端のすみれが心を和らげてくれる。 

 十三峠で大湫に出て、次は琵琶峠である。 これは見事な石畳道である。頂上もその先もずっと続いている。  埋もれていた石畳が、地元の方の情熱、執念により昭和45年に発見されたという。十三峠で疲れた身に追い打ちをかける坂であった。 この頂上には、和宮の歌碑がある。

            住み馴れし 都路出でて けふいくひ
                     いそぐもつらき 東路のたび

 十三峠ではないが、細久手から御嶽への途中に「謡坂」(うとうざか)がある。 急坂を登る旅人が、自らを奮い立たせるよう、謡いながら歩いたからという。 それならば、当方もここで何か歌おうか、と思ったのだが、約束の「信濃の国」の歌を、まだ途中までしか覚えていなかったことを思い出してしまった。

     
                         
   美濃坂本立場から大井,十三峠を経て大湫へ
  
  
いろいろな種類のウツギが街道を飾っていた
この、格子の組み合わせの美しさに見とれる
  漆喰壁はやや大柄だが、犬矢来、そして格子は京文化圏内を感じさせる 
   びやいと茶屋跡 「びやいと」は「枇杷湯糖」で、枇杷の葉と薬草を煎じたものとか
十三峠 八丁坂 壬戌紀行で「まがりまがりてのぼりくだり、
猶三、四丁も上る坂の名をとへば、しゃれこ坂といふ」とある
  

実は、十三峠が中山道一の難所だった

--碓井峠や和田峠以上にきついことを証明できた!--

 予想外に十三峠がきつくて驚いた。 たいした標高ではないのに、アップダウンが繰り返されたからで、その様子は、ルートマップページ の 「 プロフィールマップ 」 で直感的に見ていただける。 
  *このプロフィール図は「美濃坂本-細久手」ページの里程表の下にある
map ボタンから、または目次ページのmap ボタンから入り
    出てきたページの右端のスクロールバーで下に移動すると現れる


 しかし、これだけでは、和田峠や碓氷峠のきつさと比較できない。 そこで、自分で採ったデータを利用して調べてみた。 ザックの肩に取り付けているGPS受信機に保存された記録データを使ったのだが、データ解析にはカシミール3Dを利用した。

 以下がその結果である。 驚いた


   最高点

m
標高差

m
累積標高
(上り)
m
累積標高
(下り)
m
水平距離

km
 碓氷峠  (横川-沓掛宿間) 1,194 801 936 -385 17.4
 和田峠 (和田宿-下諏訪宿間) 1,608 766 1,457 -1,501 22.2
 十三峠+琵琶峠 (坂本立場-細久手宿間) 562 283 1,634 -1,547 26.4

 すなわち、その日歩いた区間について比較すると、十三峠と琵琶峠を含む今回の区間は、標高差がたった283mしかないのに、累積標高 (上り坂の合計) は、中山道の最大難所といわれる碓氷峠よりはるかに大きく、もう一つの難所、和田峠も上回って、1,600mも上ったことになる。 これで、十三峠がきつかった疑問が解けた。 さらに、和田峠を越えたときに、碓氷峠よりもきついと感じた理由も、これでデータ的にも納得できた。 和田峠は下り坂が厳しかったこと、国道を歩く距離が長かったことも理由ではあるのだが。

 マイナスの累積標高、つまり、京都に向かう方向での下り坂合計でも、十三峠がトップ、和田峠が次いでいる。 碓氷峠はわずかしか下っていないことがわかる。 だから、十三峠は下り坂も長いし、京都から日本橋に向かう場合の上りでも、やはり十三峠がもっともきついことを示している。 

 なお、map
 ボタンから入るルートマップページの、もっとも下にあるGPSログ解析の 「総上昇量」 も上り坂の累計を表しているのだが、データにずれが起きている。 この「轍(わだち)」 ソフトは、もともと自転車ツーリング用で、移動速度とGPS高度データの精度の関係から、ある程度の上りが続かないと「上昇」とみなさないらしく、このためかもしれない。 あるいはデータの間引きも関係があるのだろうか。 ここでは、GPSによる元データをそのまま、カシミール3Dで処理して比較した。

 

  このように、GPSとコンピューターのおかげで、上り坂、下り坂の様子まで簡単に表現できるようになったことも驚くべきことである。 十三峠を中山道一の難所だと、わかっていたなら、かなりの覚悟で出発したことだろう。 だから、歩き終えてからの解析でよかった、などと思ったのだが、そうならば、これから歩こうとしている方々には、おせっかいで迷惑な情報かもしれない。 お許しいただきたい。
  
  
  
大湫宿
  
  寺坂を下って、遠くに見える小学校が元本陣のあった場所 和宮が歌を詠んでいる
煙出櫓も、近江型で登場
巨大な虫籠窓も東海道のどこかにあった     
  
大湫から、琵琶峠を経て細久手へ
  
琵琶峠の石畳 当時の石畳が500メートル以上続く 最大規模である
ここが峠の頂上 上り下りの両方の坂を同時に撮ることができたのは初めてだ
弁天池
  
細久手宿
  
尾張藩本陣、問屋もつとめた大黒屋に泊る

 
 尾張藩本陣、問屋もつとめた大黒屋 1859年建築で卯建を持っている。今、大井宿から太田宿までの40キロの間にある唯一の宿泊施設である。 だから、ここに泊まれることを確認して計画することが必要である。 本当はもう一日前にに泊まりたかったのだが、団体客があってずらさざるを得なかった。偶然、その団体さんに十三峠の山道で出会った。そのことを話したら、みなさんいっせいに「ごめんなさい」。

 
ここで同宿したのは4人。 京都から日本橋を一気に目指しておられる1人。逆に日本橋から京都を、やはり一気に目指す1人。 そして、少しずつつないで京都に向かっている二人。 夕食では蜂の子をつまみながら、そして山菜のてんぷらで酒を楽しみながら話が弾んだ。 その中に、この「ゆっくり・きょろきょろ中山道を歩く」のページを見てくださっている方がおられることがわかり、双方ともたいへん驚いた。

 明日は、今回の締めくくりで美濃太田を目指す。 天気が気がかりである
  
       
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