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ゆっくり・きょろきょろ東海道を歩く
東海道五十三次を歩く
その13

白須賀宿-二川宿-吉田宿
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区間 五十三次距離表 カシミール 歩数計 備考
白須賀宿-二川宿 5.8 km 6.5 km 8,922
二川宿-吉田宿 6.1 8.2 7,943 吉田宿:札木交叉点
合計 11.9 km 14.7 km 16,865
日本橋からの累計 289.3 km 301.9 km 455,613
2007年1月

二川宿を経て吉田宿へ
旅人の荷物の重さ
 岡崎近くの土手ですれ違った京都からの女性は、昔の人のように40キロも歩けませんが、「千年灸」を持ち歩いているんです。 効きますよ。 と言っていた。 この女性は、若いうえに軽装だからか、あるいはお灸の効果か、元気はつらつであった。 こちらはマメと戦いながらの長歩きにくたびれ果てていて、みすぼらしく見えたに違いない。 

 日本橋から繰り返してきた試行錯誤と反省から、一時持ち歩いたデジタル一眼レフをあきらめて、コンパクトデジタルカメラで我慢したり、着るものも雨具も最低限度にとどめるなど、できるだけの軽量化につとめたがそれでもまだ重い。 などと、かよわいことを言っているが、江戸の頃の旅人は江戸から京までの約15日間の旅に何を持って歩いたのだろう。 どのくらいの荷を担いだのだろう。 と思って調べた。

 旅行に持って行くべきものとしての携行品リストが、当時の旅の本にこと細かに出ているようである。 ここですべてを紹介するには多すぎるが、例えば、座褥(カゴフトン)、櫛笥(クシハコ:もちろん剪刀、鏡、蝋油など中身一式)、薬籠(13種類の薬、熊胆など)、火打ち道具(ホクチ、ツケギ)、ろうそく、たたみ提灯、茶碗、お椀、箸、サジ、麻綱、ひもに物をぶら下げるためのカギ、食品(茶、白梅、カツオブシ、乾魚、イリ胡麻、唐辛子味噌、ザゼン豆、砂糖・・・・)等々。乱胴なる四角い背負い箱や皮袋に入れたようである。 もちろんそのほか衣類や雨具がある。 さぞかし肩に食い込んだであろう。 


 我が背中も重い。 舞阪から新居、白須賀を通過したものの、宿泊予定の吉田(豊橋)までには、さらに二川宿を通過しなければならない。  



 この小さな川が、遠江(静岡県)と三河(愛知県)の国境、県境を示す境川である。 ここで、土の色が東国の黒から西国の赤土に変わる、というのだが(山と渓谷社の「東海道を歩く」88頁)、確認するのを忘れてしまった。 この境よりも手前、白須賀寄りに立場の猿ヶ馬場があった。 広重の三種の二川図にいずれも名物の柏餅茶屋が描かれているのだが、今は店も柏餅もない。 豊臣秀吉が小田原征伐に行く途中寄った茶屋で、お爺さんとお婆さんが蘇鉄の餡を入れて柏の葉でくるんだ餅を「戦々開餅」として差し出したそうだ。 戦いに勝って帰る途中、再び立ち寄った秀吉は、自分の顔のことはさておいて、顔が猿に似ていたお婆さんに褒美を与え、この餅を「猿が婆の勝和もち」と呼ぶよう申し渡したそうだ。 これが後に、「猿が婆」が立場の地名「猿ヶ馬場」となり、「勝和もち」が「柏餅」になったという。(広重の東海道五十三次、人文社、93頁)
  保永堂版:二川図
  


 
 愛知県に入ると、1号線との合流区間が多くなった。 台地は三浦半島の台地に良く似て、キャベツ畑が広がっている。 強い西風を正面からまともに受けながら、ひたすら我慢して歩くと、やっと、1号線から分かれて、二川の宿に到着である。 当時の本陣の建物が残り、資料館とともに本格的な本陣の姿を見学できる二川宿は、旧東海道の人気スポットである。

醤油(土地でいう「溜味噌」)の東駒屋、本駒屋
二川宿本陣
同じく西駒屋 「味噌溜」と書かれている
吉田宿(豊橋)に到着。
路面電車(豊橋鉄道)の「札木」停留所のある交叉点が本日の終点である




    
         東八丁交叉点を通過する豊橋鉄道電車
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