蒸気機関車が今も活躍する大井川鉄道の踏切を渡る
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金谷坂に石畳の道が再現されている。石畳の周囲には茶畑が広がり始めた。
牧之原茶園である。
明治3年に、大井川に渡船が始まって、失業した川越人足と駿府城下から移住した士族たちが開墾して、その後発展した茶畑だという。
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息を切らして金谷坂を登りきると今度は、同様に石畳が整備された菊川坂を下って、中世には宿場であった菊川の集落に入る。
鎌倉時代の初めに承久の変で捕らえられて鎌倉に送られる途中、ここで処刑されたという藤原宗行の碑と、その100年後の元弘の乱で鎌倉へ送られる日野俊基の歌「古もかかるためしをきく川の同じ流れに身をやしづめん」の碑が並んでいる。
ここの名物は、菜飯田楽とか。 |
いよいよ、小夜の中山に入る。 青木坂を登ると茶畑の山が幾重にも重なって拡がっている |
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青木坂を登りきると久延寺である。 山内一豊が、三成につくべきか家康かと決めかねているとき、上杉征伐に向う途中の家康をもてなしたという茶室跡がある。 また、「夜泣き石」がある。 この夜泣き石、広重による永堂版、行書版、隷書版の三版とも日坂宿の絵に描かれているのだが、この久延寺以外にも「夜泣き石」があり、いきさつがややこしい。 山賊に殺された妊婦の霊が石にこもって毎夜泣き、無事生まれた子どもが水飴で育って、母の仇を討ったという、その伝説の石である。 そして、その飴は小夜の中山名物、「子育飴」として、今も茶屋の扇屋のおばあさんが売っているという。 壷から割り箸に巻いて出すのだそうだ。 子どもの頃の駄菓子屋がそうだった。 だが、残念ながら、店は閉まっていた。 |
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扇屋の斜め向いに、今回のお目当てである、西行法師の歌碑がある。
「年たけて又越ゆべしとおもひきやいのちなりけりさやの中山」
亡き恩師が我々に暗誦してくださった太平記の名文の一節で、日野俊基が京都でとらわれて鎌倉へつれてゆかれる道中、俊基が、小夜の中山を二度も越えた西行法師をうらやむ場面がある。 その西行の歌である。 それにしても、せっかくのこの碑は某大学教授のデザインだそうだが、広告塔のように見えてしまう。
写真の下右端は、芭蕉の、 「命なりわずかのかさの下涼み」、
下の中は新古今和歌集から、「ふるさとに聞きし嵐の声もにず忘れぬ人をさやの中山」(藤原家隆)、
上の右端は、同じく新古今集から、 「あづまぢ(東路)のさやの中山さやかにも見えぬ雲居に世をや尽くさん」
西行の歌も、このような素朴な形の石に刻んで欲しかった。 |
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歌碑はないのだが(当然か)、面白い歌をひとつ。
「一日に二度越ゆべしと思ひきや命からがら小夜の中山」
狂歌師の馬場金埒が、東隣りの菊川で、名物の菜飯田楽を食べた茶屋に脇差を忘れた。 中山から西側二つめの掛川宿で気がついて取りに戻るため、やっと越えたばかり小夜の中山峠を、また越えるはめになったときに詠んだもの。 いうまでもなく、上述の西行の歌のもじりである。 (森川昭著、三省堂:東海道五十三次ハンドブック P106)
この小夜の中山越えが特にきつかったのは、京側から西の坂を登るときだったと思う。 比較的穏やかな東の青木坂にくらべて、西の「二の曲がり」は急坂、急曲がりの連続である。 その二の曲がりのヘアピンカーブいくつかを曲がりきると日坂宿に出る。 |
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日坂宿である。 小さな宿場だが、よく保存されている
掛川に近づくと秋葉常夜灯があちらこちらに見られる。 秋葉山は火伏の神として信仰が盛んであったという。 東日本の各地で秋葉講が組織されて、参詣者を送り出していたそうだ。 広重の保永堂版の掛川の図では、この秋葉山を背景に丸凧が揚がり、田植えが行われている。 凧は5月がもっとも盛んで、田植えの季節と重なるという。
広重の掛川図に、凧と田植えが同時に描かれていることを、広重が東海道を歩いていない証拠のひとつと主張している人がいる。 凧を正月のものと決めつけているこの人は、きっとここを訪れたことがないのだろう。 |
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袋井に着くころには、すでにとっぷりと日が暮れていた。 懐中電灯をたよりに、松並木を歩いたが、田んぼやドブ川と歩道の境が分かりにくくて不安であった。
ここは、五十三次の二十七番目の宿で、ちょうど真ん中である。 「どまんなかの袋井宿として宣伝している。 路を尋ねた「どまんなか茶屋」のご主人からお茶を勧められたが、すでに店じまいの途中だし、当方もはやく宿屋に入りたいので、お礼をいって失礼した。
袋井までで、日本橋から231kmの計算である。 半分が終わった。 「やっと、半分」である。 「もう、半分」ではない。 |
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