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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その15

大聖寺-金津 そして 寄り道 橋立
  
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
大聖寺-加賀・越前国境 6.51 km 6.05 km 9,572 宿場間距離は大聖寺-国境間
GPSおよび歩数は大聖寺中町-国境間
加賀・越前国境-細呂木 2.04 2.13 3,008
細呂木-金津 7.15    7.50    10,355   金津:竹田側南詰 
合計 15.70 km 15.68 km 22,935 橋立歩きは含まず
高田宿からの累計 268.23 km 296.23 km 424,059
追分宿からの累計 402.86 km 443.86 km 636,128 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2012年6月
   
大聖寺から、加賀・越前国境を越えて金津まで
      
 大聖寺を離れる前に、北前船ゆかりの橋立に寄り道した 
 
 
 橋立の大船主、西出孫左衛門家の広大な屋敷跡 
 
当時、日本一の豪村といわれた。70~100隻の北前船が一隻当たり現在価値で年に6000万円~1億円の利益をもたらしたという。その時、この村には300世帯が住むだけだった。 学校や病院を寄付したり、藩政のころは大聖寺藩の財政を大きく援助したという 

   
 
北前船の里資料館 (酒谷家住宅)
 
当時は国内でも最先端を行くインフラを持っていたという
 
  
 
 光沢のある釉薬をかけた赤瓦である  
   
海の街道 その4 日本一の北前船船主村・橋立に立つ
 海の街道を行く北前船に関心を持って以来、どうしても訪ねたかったのが旧橋立村である。大聖寺宿から街道をはずれて寄り道をした。北前船ゆかりの地である。富山では東岩瀬や伏木で旧北前船主の家を訪ね、前回も金沢に到着後、金石(かないわ)港にある悲運の北前船主、銭屋五兵衛の記念館で、北前船そのものや周辺の文化を勉強した。しかし、大聖寺川河口にある塩屋、瀬越とともに、当時、日本一の富豪村といわれた橋立だから、なんとしても行きたかったのである。

 船主村であるから港に面して屋敷が並んでいるだろうと想像していたが、船主集落は海が見えないところにあった。海の方への見当をつけて歩いてみると、橋立港は入り江にある小さな港と幾重もの防波堤に守られた外港があって、両方とも忙しく漁船が行き交って魚を陸揚げしていた。小さい方を旧港、大きい方を新港と呼んでいるようだ。この旧港も近年になってから爆破で掘削したものとのことである。もともと、橋立には加佐の岬が現在よりも三百数十メートルも突き出していて、船をつなぐのに良い湾があったらしいのだが、1770年代に、大荒れで一夜にして消えてしまったという(高田 宏:日本海繁盛記、岩波新書)。いずれにしても当時は、千石船が入れるような港はなく、北海道への往き帰りの際、北前船は沖に停泊して「はしけ」で人や荷を運んだそうだ。船主にあいさつをし、家族に土産を渡す程度のごく短時間の寄港だったようだ。ある船乗りの嫁さんが妊娠して、姑は嫁を疑ったが、暮れに帰ってきた船乗りが、その覚えがあるといって疑いが晴れたという話もある(前出の岩波新書)。橋立は70隻とも100隻にも及ぶともいわれる北前船を持つ日本一の北前船基地だったのだが、北海道から帰った船は大坂に係留して、船乗りは徒歩で橋立に戻って正月を迎え、春には再び大坂に行くという生活であった。しかし、これは大坂から始まる「買い積み」と呼ばれる商いの都合からであって、橋立に船を泊められないからではなかった。

 一隻の北前船が現在の価値にして年に6000万円から1億円の利益を生んだという。たった300世帯の村に70~100隻だったから繁栄ぶりはすざましく、藩への支援や学校や病院など公共施設の寄贈で社会貢献を行ったことでも知られる。だが、電信が生まれて情報が飛び交うようになると品物の地域による価格差が小さくなり、また鉄道の開通や大型汽船の登場は致命的で、富と文化を生んだ北前船は、江戸中期から明治中期までのたった200年で幻のごとく消えたのだった。

 国の重要伝統的建物群保存地区に指定された美しい家並みである。石州系の赤瓦、福井県産の笏谷石(しゃくだにいし)の敷石や石垣、そして2階の窓のない壁を下に拡がる形に傾斜させて囲った「包み板」と呼ばれる素朴な板材や板塀がこの橋立の建物の特徴であると、地元の人が教えてくれた。資料館として公開されている旧酒谷長兵衛家は中規模の船主屋敷とのことであるが、立派な大広間や仏間のほか、残された資料も豊富にあり、消え去った北前船の栄華と残された文化を物語る貴重な存在である。他にも旧船主宅が蔵六園などとして残されているが、これらの集落を奥に入って行くと、深い木立の中にわずかに土蔵や荒れ果てた建物の一部と板塀が残るだけの石垣に囲まれた広大な敷地が並ぶ。大聖寺藩の経営に貢献した西出孫左衛門家もその一つである。かつての繁栄が偲ばれるととともに、栄華の果てに訪れた、空しさ、寂しさが胸に響く景色であった。

 泊ったのは、酒谷家系の船主が娘のために建てた家を、北前船の事業をやめるときに、その船の知久、すなわち事務長だった人に譲った家であった。蟹のシーズンには大賑わいという民宿である。朱塗りの太い梁が印象的なオエ(居間)のある家で、奥さんから北前船や橋立の昔と今の話を聞きながら地酒と地元の魚で楽しんだ。
 
 
 橋立で泊った民宿

 橋立の北前船の里資料館では、北前船と山中温泉を結ぶ面白い証拠を見つけた。伏木の北前船資料館:旧秋元家住宅などの北前船ゆかりの施設では、船具や生活用品などとともに、数多くの船絵馬を見てきた。海難事故の多い北前船航路だったから、航海の安全を祈願し、あるいは難破からなんとか帰還できた感謝の気持ちから、地元の神社に奉納されたものである。船の形だけでなく、背景などには描かれた時代の様子や世相も反映していて面白い。
 船絵馬

 しかし、今回見つけたのは「引札」である。これは、現代でいえば「広告チラシ」である。木版や石版、その後の銅板で刷られた多色刷りのビラで内容は多彩である。1683年に三井越後屋が「現金安売掛値なし」と書いて配ったのが始まりとされているそうだ(牧野隆信ほか:「引札の世界」、北前の里資料館)。塩問屋、醤油問屋、呉服、小間物、桶、硯、仏具などあらゆる商品の扱い店が出しているが、特に北前船が運ぶ品物を扱う船問屋の広告が多い。北前船が運んだ荷物は船問屋に販売を依頼するし、品物を買って船に積むときにも問屋が手配するから問屋と北前船の船主、船頭との関係は密接である。だから、たとえば新年のあいさつに、暦入りの引札を船主や船頭に配ったのだろう。流通経路を豊富に持っていますよ、とPRする船問屋の引札は品物の生産者や販売者に配ったものだ。時代とともに、大型の汽船や蒸気機関車まで登場してくるのも面白い。そうした中に、山中、山代、粟津などの温泉旅館の引札があるのだ。北前船がまだ北海道から大坂への帰路を急いでいるころ、あるいは船乗りが大坂から橋立まで歩いて戻るころだろうか、山中温泉の旅館の女将は女中さんを連れて、橋立の船主宅をまわったのだそうだ。このような引札に手拭いを添えて、みなさんが戻られたら今年もぜひウチに来て湯治してください、と頼んだという。なぜか、山中温泉所の引札の一枚には十二単衣姿の貴婦人が描かれている。いつの時代も変わらず、美人画で目を引こうというのだろう。
   
 引札(左:山代温泉 右:小浜港の回漕問屋) 

 
 その季節、山中温泉は北前船の船頭さんたちで大賑わいだった。客の半分は北前船の衆だったともいわれて、温泉地にとってかけがいのない客だった。船頭さんたちも、仕込んできた各地の民謡を唯一の共同浴場だった総湯で披露ることを楽しみにしていたのだろう。文字通り板子一枚下は地獄だった一年間の航海を終えて、船を大坂の川につないで戻ったときの安堵感、そして、ひと航海で一千両の儲けを稼いだ充実感で、湯船はさぞ賑やかだっただろう。客の浴衣を持って聞き惚れる「ゆかたべ」の少女との掛け合いから生まれたのが山中節だが、このあたりについては、海の街道 その1、その2、その3を参照いただきたい。
 
橋立散歩のGPS記録 中央下にある線の塊は橋立温泉付近
 
 橋立港(新港) 幾重もの防波堤に守られている
 
 
 橋立港(旧港) 北前船のころ、ここに船は入れなかった。 北前船は沖に停泊して「はしけ」が人や荷を運んだ

 
 
 
 
 
 漁船が入るとおびただしい数のカラスが出迎える 昔はこんなことはなかったと漁師さんから聞いた
 
加佐の岬の朝
 
 
 再び街道に戻って、大聖寺中町から加賀・越前国境、金津を目指した
   
越前に入っても麦畑が多かった。 水田を見るとホッとする
    
  
  地蔵に花を手向けたあと手を合わせて去る地元の女性--国境に向かう山の道にて   
    
  
  
 
 旧北陸道は右から来て、手前に左折する 右折すると吉崎に向かう道。 蓮如によって浄土真宗を広めた拠点であった

   
 国境一里塚 と 「お国境名号塔」
  
国境を行く道の左側に広大な梨畑が広がって驚かされた 
  
 鋸坂を下ると三叉路に出る。 ここで吉崎道が分岐する 福井方向から吉崎に向かうにはこの道を通ったようだ
  
 細呂木宿
  
 
嫁威しの谷」 姑が鬼の面をかぶって山道で嫁を脅かしたところ面がとれなくなった、という伝説を聞いていた。しかし、この説明版には面がとれなくなったとの話はなく、もっぱら蓮如上人の偉大さに力点を置いて説明している 
 
 
 
  
 
 千束一里塚  塚らしきものが残っている一里塚は旧北陸道ではきわめてめずらしい
           

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