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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その14

動橋-大聖寺 そして 寄り道 山中温泉
  
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
加賀温泉駅裏-大聖寺 8.49 km 5.01 km 7,239 宿場間距離は動橋-大聖寺間
GPSおよび歩数は加賀温泉駅裏-大聖寺
大聖寺-中町 0.59 826 中町:交差点
合計 8.49 km 5.60 km 8,065 山中温泉歩きは含まず
高田宿からの累計 252.53 km 280551 km 401,124
追分宿からの累計 387.16 km 427.84 km 613,193 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2012年5月
   
動橋から大聖寺まで そして 山中温泉に寄り道
  
 前日の終点、加賀温泉駅裏から大聖寺まで歩いたのだが、
その前に山中温泉で一泊の寄り道をした。北前船ゆかりの地だからである
    
      
 加賀温泉駅が近づくと巨大な観音様が見えてくる 高さ72メートルとい巨大な像だ。
こちらからでは見えないが、抱いている赤子でさえ奈良の大仏様より大きいという

  
   
加賀の赤瓦がますます増えてきた。 光沢があるから釉薬がかかっていることがわかる。
寒冷地向けの、水分や凍結に強い赤瓦だ
   
大聖寺宿 
大聖寺川を渡るとまもなく大聖寺高校、さらに街を進むと古い街並みが現れる
 
  
     
    石川県立大聖寺高校正門 現在の校章に旧制中学、旧制高等女学校の校章も瓦に刻まれている
平成2年に前田藩藩邸だった東大赤門をモデルに建造 瓦は越前の伝統的技法による
    
    
 
  
 
   
 
 元本陣はこの辺りか。 角の作りが面白い。 下の写真の建物にも共通する  
 
   
  
 
大聖寺の駅に比較的近いところに全昌寺があった。 句碑など芭蕉の足跡がある。
前日に泊った曽良が「よもすがら 秋風聞くや うらの山」と残すと、
翌日着いた芭蕉が、請われて「庭掃きて出でばや寺に散る柳」と詠む
   
北前船と奥の細道にゆかりが深い山中温泉に寄り道した 
 
  
海の街道 その3 船頭さんが歌った湯に浸かる
 山中温泉は、旧北陸道からみると、明日行くことにしている北前船船主村の橋立とは反対の山側にある。北前船の足跡を山の中に探したくて、5時起きで30数キロ歩いてから、旧街道に近い加賀温泉駅でヤドの迎えを頼んだ。

 泊ったのは山中温泉12人衆の一人が800年前に始めたという由緒ある旅館だったが、何はともあれと、着いてすぐに総湯「菊の湯」に出掛けた。今でも、共同浴場を北陸では総湯と呼んでいるという。当時と同じ場所にあるというし、立派な建物と大きくて深い浴槽が特別な雰囲気を醸し出しているうえ、ちょうど夕方の入浴時で、地元の人たちで大賑わいである。そして気がついた。奥の壁に大きな絵が描かれている。急いで絵の近くまで、大きくて深い浴槽の中を歩いた。驚いた。近くの医王寺が所蔵する「山中温泉縁起絵巻」の一部を九谷焼のタイルに焼きつけたものだと分かった。驚いたのはその絵の内容である。昔の総湯を描いた図なのだが、旅館に囲まれた広場の地面に直接、5、6メートル角ほどの真四角な浴槽が掘られていて、なんと四本の隅柱と石を載せた板屋根があるだけなのだ。そこに、老若男女が浸かっている。そして、浴槽のまわりには、通行人が行き交っているのだが、裸のこどもを風呂に入れようとひっぱっている母親などさまざまで、風俗が描かれた面白い絵巻の世界だ。さらに驚いたのは、よく見ると、なんと「ゆかたべ」にも見える女性もいるのだ。湯につかっている船頭さんたちが各地で仕入れてきた民謡を自慢ののどで披露し、客の浴衣を持って待つ女性たちが聞き惚れて、客と歌を掛けあったという、その「ゆかたべ」だ。

 風呂から出て、菊の湯の番台のおばさんに、あの絵が欲しい、絵ハガキがあるだろうか、と聞いた。隣の劇場「山中座」を紹介された。その山中座の女性に聞くと、あの絵のコピーがあるので写真を撮ってもいいですよ、それにこの劇場の緞帳もあの絵を使っていますよ、と言って劇場に入れてくれてわざわざ緞帳を降ろして見せてくれた。この親切には感激した。「ゆかたべ」が少し違うように見えたが、緞帳を織るさいに省略したらしいという。いずれにしても思わぬ出会いで大いに喜んだ。
 
山中座の緞帳の「山中温泉縁起絵巻の一部」
 
こちらが医王寺所蔵絵巻からの複製(山中座展示)

 しかしこの絵巻、いつの時代を描いたのだろうか。調べると、この絵巻が作られたのは文化9年(1812年)という。北前船が盛んなころではある。しかし、「縁起絵巻」というからには制作当時の姿ではなくて、遠く遡ったものにちがいない。今回、医王寺の実物の絵巻を見ることができなかったのはとても残念であるが、資料によると、絵巻の別の部分には、さらに遡って壁どころか屋根もなかった総湯が描かれていることがわかった。しかし、いずれにしても北前船が隆盛の時期に壁がなかったとは思われない。明治40年ごろの写真には、外観的に現在の建物によく似た立派な総湯(菊の湯)の建物があるが、これまでに何度も建て直しているとのことだから、当時、少なくともこれに近いしっかりした建物はあったのだろう。なお、昭和の初めまでは、各旅館に内湯がなく、この総湯が唯一の風呂だったことは確かなようだ。

 前回、「海の街道 その2」に書いたように、もともと信州の追分あたりの馬子歌が北前船で北に渡り、江差追分や松前追分になり、それが戻ってきて、あるいは出雲節やどっさり節も北前船が運んできて、この総湯での歌の掛け合いによって地元のことばで磨かれながら山中節が出来たという。そうした北前船と山中温泉が結ばれていた証拠を、目の前にした思いである。しかも、当時と同じ場所にある湯船で見ることが出来たのだ。

     「山が赤なる木の葉が落ちる やがて船頭衆がござるやら」

 ここで手に入れた正調山中節を名人の美しい歌で聞きながら、これで「海の街道」がやっと自分のものになったような気がした。幸せである。
 
  
  左が総湯(菊の湯)の女湯 右が山中座である 医王寺は右の道を行って階段を登る 
 
左が女湯 右が男湯である  
  
この山中座で絵巻のコピーや緞帳を見せてもらった 
 
木組の橋「こおろぎ橋」
  
 モダンな「あやとり橋」草月流家元・勅使河原宏氏のデザインだとか 

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