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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その10

福岡宿-今石動宿-埴生-倶梨伽羅峠-竹橋宿-津幡宿
  
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区間 宿場間計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
福岡宿-今石動宿 7.74 km 7.71 km 10,612 福岡: GPS、歩数は駅入り口交差点
今石動宿-埴生宿 1.93 2.48 2,810
埴生宿-倶梨伽羅峠 3.98   4.70   7,460   倶梨伽羅峠: GPS、歩数は手向神社前
倶梨伽羅峠-竹橋宿  4.89   5.11   7,112    
 竹橋宿-津幡宿 3.77   6.09    8,059   津幡:GPS,歩数は駅前  宿間距離は御旅屋跡
     (本陣跡-津幡駅前=1.73km
2,117歩)
合計 22.31 km 26.09 km 36,053
高田宿からの累計 186.20 km 210.14 km 305,385
追分宿からの累計 320.83 km 357.43 km 517,454 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2011年10月
   
福岡宿から今石動宿、埴生宿、倶梨伽羅峠、竹橋宿を経て津幡宿へ
  
 今回の二日目は、いよいよ倶梨伽羅峠を越えて加賀入りである。
峠の途中から、霞んではいるが石動方面を望み、散居村のような広がりに見えたがどうだろう。
ますます、旧街道の家並みから、加賀の香りが匂ってきた。近江のときに似た雰囲気とででもいえようか
    
   越中と加賀の国境付近倶梨伽羅峠の森
 倶梨伽羅峠から越中側の石動方面を望む    霞んでいるが、散居村の面影が見えているのだろうか
 
倶梨伽羅峠を越えた加賀の竹橋宿にて。 アズマダチの大破風は北陸風・信州風だが、庇の霧除けや 空きの小さい緻密な連子格子は京風・近江風か。 西と東の文化が融合した民家の形かもしれない。
なお、庇の「霧よけ」は初めて出会った旧東海道庄野宿で聞いた呼び名だが、その後、近江では「幕板」とも聞いた。ところが、この越中、加賀ではこれを「サガリ」と呼ぶらしいことを知った。雨や霧、雪の吹き込みを避ける目的は同じだろうが、装飾としての意味もあるのだろう
 
    
  
 海の街道 その1 -- 伏木で買った利尻昆布
 かつて熱病にかかったように夢中になった八尾のおわら風の盆がある。出張のときに自ら発見したつもりになった散居村があり、そしてそこに屋敷林・カイニョがある。自分の知らない、こんなすごい世界があるのだと驚いた、すばらしい越中の国である。あのカイニョの中の立派な民家は、今回の旅でもずっと街道沿いに続いているアズマダチである。ずっと時を経た今、その越中を縦断しながら、またまた夢中になっていることがある。これまでとは、また違う世界である。

 今回、金沢までの旅を終えた帰り道、伏木に向かった。今は海岸線が後退してしまったから役割を果たすことができないが、伏木港を見下ろして、自分の船が入ってくるのを待った黒くて高い木造の望楼のある家がある。そこを訪ねた。元北前船の船主の家である。なんと、うれしいことに、その家に利尻昆布が置いてあった。北前船ゆかりの、蝦夷から来た上等な利尻礼文の昆布である。もちろん、土産に買った。(高岡市伏木北前船資料館:旧秋元家住宅)

 それまで、北前船(きたまえぶね)は、菱垣廻船や樽廻船と並んだ教科書で呼び方を覚えた程度だった。しかし旧北陸道歩きの準備と好奇心で調べているうちに、かつて北前船が寄港した港がこの近くにある、などという程度で済ましてしまうわけにゆかないと思い始め、図書館や全国の古本屋をネットで探して資料を集めた。そして、伏木の北前船船主秋元家の住宅が資料館として公開されていることも知ったのである。開館直後でまだ客が他にいない朝のうちに、その資料館を存分に見てまわった。北陸各地の神社に伝わる船絵馬の展覧会も開かれているなど、たいへん興味深い展示であった。そして、望楼にも登って伏木の海ならぬ、町を見渡した。帰りには近代化された伏木港に架かる万葉大橋を歩いて渡りながら、昔の千石船の帆柱が林立する光景を思い描いた。

 北前船は、定義の仕方によるが、江戸中期にはじまり、明治中期に約200年にわたった役目をほぼ終えたのであった。その具体的な様子は、北前船の地元の研究者などの力で今はよく知られるようになった。その研究者の一人で、北前船の大船主村の近くにある大聖寺高校の校長先生だった牧野隆信氏によれば、北前船とは「北国の船で、蝦夷地と大坂を結んだ不定期船で、買い積みを主体とし、その船型は北国船・ハガセ船・ベザイ船(弁才船)から西洋型帆船に及ぶものである」という(牧野隆信:北前船の時代、教育社歴史新書)。「買い積み」とは、現在の貨物船のように運賃をとって物を運ぶのではなく、船主から預かった資金で商品を買って載せ、往復の経由地や到着地で売って利益を得る、という商売の形式のことである。近江商人の「持ち下り商法」といい、天秤棒を担いて自国の品を各地で売って、さらにその土地の産物を買って他所や自分のところで売って稼ぐ、という方法からきたといわれる。この商売の形態や、船主と船頭、船員(水夫)との関係やルールは北前船独特のもので、見習いの炊(かしき)として雇われても、才覚と努力で、知工(ちく:事務長)や船頭(船長)、さらに船主にもなれる仕組みで、財をなした大船主もこうして出世した人が多かったという。北前ドリームとでもいえようか。
   
 北前船は1年に一度の航海である。早春、故郷である越中、加賀、越前など北陸の港に住む船頭や水夫(カコ)は徒歩で大坂に向かう。そして、大坂の川に繋いであった千石船などの北前船の船囲いをはずして船の修理をしてから帆柱を立て、大坂から日用品などを購入し、積んで出航する。金毘羅さまに安全祈願をして、瀬戸内で塩や米など次々に買いながら下関経由で日本海に出る。風が逆だったり時化たりすると数週間でも途中で風待をしなければならない。故郷の北陸などでも米などを積んで北上する。大坂を春彼岸ごろに出港して初夏に蝦夷に到着する。時代によって違うが函館や江差、松前などの南部だけでなく、まだ小さかった小樽はもちろん、天売島や、利尻礼文、さらに今でいう北方四島も含めてかなりの範囲で活動したらしい。運んだものを売りさばくと同時に、北前船最大の狙いであるニシンの搾りかす(〆粕)のほか、昆布、数の子などを買い集めて8月中には出航して帰るわけだ。風を見ながら、途中で売りさばきながら大阪に帰るのは、晩秋か年末に近くなったという。船を囲って、また徒歩で北陸に帰るのである。この1年がかりの旅を繰り返したが、風待ちで各地での滞在も長かったというし、いろいろな悲喜劇も生まれたようだ。もちろん遭難も多かった。

 この北前船に興味を持った理由のひとつは、陸の旧北陸道と並行して、このような海の街道ともいえる北前船航路が存在して、品物だけでなく、文化の運び役でもあったことが分かってきたからである。そうしたエピソードを次回のコラムで紹介したい。

 
 
まずは前日の終点であった福岡宿を出発
  のどかな景色が続いて気持ちがよい
 
  
 
 
  ここにも「天窓」があった
 
立派な出桁構造で張り出す屋根を支え、1階の庇にはやはり霧よけ(幕板)がある
  この辺りでは、「霧よけ(幕板)」を透明にしているお宅が多い
 
 高岡の金屋町にあった庇の上の横木(角材)がこの辺りにも多い。 
上の写真のお宅も、下の写真のお宅でもそうだが、庇の板は2枚重ねて
頑丈に載せられ、その上から角材で抑えられている。
雪の重みに耐えつつ、下に落とさないための工夫だろうか
 
  
 
 石動の古い呉服屋さんの屋根にも櫓があるが、これも明り採りのためだろうか
石動でも、曳山祭りが見事だそうである ぜひ見たいものである 
   
   
倶梨伽羅峠を越えて加賀の国へ

埴生から山に入って倶梨伽羅峠を越える 途中、大きい案内版があったものの、ハイキングコースの案内で
二つに分かれる道のどちらを行けば旧北陸道なのかに迷ってしまった GPSで解決したが・・・
  
   
  
 
 
火牛の計で平家軍は負けたとされているが、牛はこんな風に角に火をくくられたら
敵陣に突進なんかできないとする説が強いようである。本家の中国では尻尾に火をくくったという 
 
ここが平維盛を大将とする平家軍の本陣だった
久しぶりに、蔀戸(しとみど)との出会いである。 昔から街道には当たり前にあったと思っていた格子が、実はごく最近、明治以降に造られたものが多く、昭和40年代でも街道沿いの家ではほとんどが格子ではなくて蔀戸が使われていた、と聞いて驚いたのは、中山道・木曽路の奈良井宿の民宿だった 

                                
 
 津幡宿の街中に、旧北陸道から能登に向かう分岐点がある
ここでも、この先を行くとどんな世界があるのだろうと、能登路への思いを馳せた
 
  
この日、加賀に入ったのだが、津幡から高岡に戻って、駆けつけてくれた会社の元同僚と飲み交わした。
越中の呉東と呉西の飲み比べをしながら、富山湾の魚を大いに楽しんだ

  
左:呉東の酒       右:呉西の酒
  
明日はいよいよ金沢入りである

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