貝田宿から、越河(こすごう)宿、斎川宿を経て白石宿まで |
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立派な格子に、蔀戸(しとみど、左側の板戸)まである |
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兜造りの藁葺き屋根に格子窓もあったこのお宅、かつては見事だっただろう。今、トタンで覆われて面影を留めている。
残っている大正・昭和 |
今回の、二本松から白石までの旅で気づいたことが二つある。ひとつは、この奥州街道が予想以上に平らな道であったことである。まだ目標の仙台は少し先だが、日本橋から白石までの街道の最高地点は、関東と奥州の境、すなわち栃木県と福島県の境での標高411メートルだった。旧北陸道、木の芽峠の632メートル、旧中山道の和田峠1607メートル、旧甲州街道、笹子峠の1099メートル、旧千国街道、大網峠の835メートル、旧東海道の箱根峠付近の850メートル、東の旧北国街道、柏原・野尻間の731メートルと比べてかなり低いし、急坂もほとんどない。参勤交代の奥州の大名たちは、この点では苦労が少なかっただろう。「奥州街道を歴史が歩いた」に書いたように、桑折宿で羽州街道から奥州街道に入った日本海側大名家も含めて、中山道に匹敵するくらいの数の大名が利用した街道だから、きつい峠を通らねばならなかった西方の大名からはうらやましがられたに違いない。
もうひとつ気づいたことは、白河からの福島県内に予想外に旧街道の雰囲気が残っていたことである。宇都宮からの旧奥州街道では、大谷石文化が濃厚で、加えて長屋門など武家文化を取り込んだ豪農の姿が残っていたが、旧宿場ならどこにでもあった格子を持つ町家がほとんど残っていなかった。ところが、五街道指定部分を終えて、白河から旧奥州街道を北上すると、さほど多いわけではないが、あの旧街道の顔である格子が、再び姿を現したのである。途中で巨大な江戸がブロックしていて、京文化は奥州には届かなかったに違いない、と以前に書いたのだが、そうではないのかもしれない。特に、福島宿を過ぎてから、桑折宿や越河宿に美しい面影を見ることができた。蔀(しとみ)戸まであって驚いた。途中で消えたのに、なぜ再び登場したのだろう。
「忘れられた日本人」の著者である民俗学者の宮本常一が残した10万点の写真が瀬戸内海の周防大島文化交流センターにあるそうだ。その一部の写真はいくつもの書物に掲載されているので比較的容易に見ることができる。手許にある数冊をめくってみると、その写真はどれも昭和時代の人の暮らしの記録であり、人と自然の関わりの記録でもある。心を揺さぶられる昭和の世界である。それは、行商のおばさんだったり、干された洗濯物だったり、離島のこどもたちだったり、とごく当たり前の庶民の日常生活の世界、どちらかというと裏通りの世界である。それに対して、これまで自分が歩いてきた旧街道は、もともと表通りの世界であった。当時、参勤交代の大名をはじめ、行き交う旅人に、せいいっぱいよそゆきの顔を作って見せていたのだ。いろいろな形の格子も、卯達(うだつ)も、虫籠窓を持った塗籠め壁などもその名残である。しかし、こうした街道文化を今も目にすることができるのは旧東海道や旧中山道などのごく一部でしかない。この奥州街道では、ほんのかすかな名残りがあるかどうかである。街道が栄えた江戸のころの街道の雰囲気が、明治、大正を経て昭和へと伝えられたのであろうが、その昭和が消えようとしているのだ。宮本常一の世界だけでなく、表通りからも消えつつあるのだ。今回の旧奥州街道歩きも、その残り火探しだった。だから、福島から宮城への旧街道を歩いて、消え去ってしまったと思っていた残り火が、すこしだけだが、見つかったことがうれしく、そして京文化がここまで伝わっていたことがわかってホッとした。
そして今回、はからずも、その昭和の輝きに直接再会することができた。今回の旅の終点は白石である。大学を退官後、その白石の山中、というとしかられるかもしれないが、蔵王連峰などが眼前に広がるすばらしい丘に居を構えて、イノシシと闘いながら農園を耕しつつ、染色家の夫人との仙人暮らし(我々はそう呼んでいる)をしている解剖学者が我が小学校時代のクラスメートなのである。その彼の家に一泊させてもらい、採れたての野菜をいただきながら盃を重ねているうちに、昔話になり、仙台での小学校時代に度々お邪魔して聴かせてもらった手回し式の蓄音機が、今ここにある、と聞いてびっくりしたのだ。さっそく見せてもらったのが上の写真である。当時、竹針を専用のハサミで切って尖らせてはベートーベンを聴いたのである。実に、実に懐かしい、60数年前の思い出である。
下のイラスト地図は越河公民館前に掲げられていたものである。この地図には「越河地区宝ものまっぷ」、「季節で変わる色彩も地域の宝物」と書かれていた。これも、実にのどかな、美しい昭和の世界である
<参考文献>
・宮本常一:宮本常一が撮った昭和の情景 上巻、毎日新聞社(2009年)
・田村善次郎、宮本千晴:宮本常一と歩いた昭和の日本10、農山漁村文化協会(2010年)
・佐野眞一:宮本常一の写真に読む 失われた昭和、平凡社(2013年)
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旧奥州街道は越河駅の裏を通っている |
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当時、貨物用蒸気機関車はD51だっただろうか。今は強力な電気機関車EH500、「金太郎号」である。
上野と仙台を往復したときによく乗った急行「青葉」の前後2両の蒸気機関車はC61ではなかったかと思う
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馬牛沼
蝦夷征伐に来た征夷大将軍坂上田村麻呂の乗馬が落ちて死んだから馬入沼ともいうそうだ
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「孫太郎虫供養塔」と石仏群
「疳(かん)のクスリ」である孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫)を乾燥させたものが
斎川宿の大きな税源となっていたという。今もあるらしい。
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田村神社
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斎川宿検断屋敷跡
警察・治安維持・刑事裁判にかかわる検断役で、さらに宿駅としての伝馬、人足業務をつとめ、大名も宿泊、休憩した本陣の役割ももっていた嶋貫家の役宅跡である。今、廃屋であるが屋敷内に明治天皇行幸の記念碑がある |
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左の石の道標に「磐城国 刈田郡」とある。ここは宮城県なのに、と思って調べると、明治元年に戊辰戦争が終わって陸奥国が分割されたとき、福島県浜通りなどとともに、宮城県南部のこの一帯も磐城郡となった、とわかった。もちろん今は宮城県である |
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道祖神社
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白石の街に入る。 大都会である
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白石に到着して、仙台まであとわずか51キロとなった。
最後にもう一度、阿武隈川を見ることができそうで、楽しみである
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今回もご覧いただき、ありがとうございました
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