福島宿から瀬上、桑折、藤田を経て貝田宿まで |
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近代都市福島も、旧道を歩き始めるとたちまちレトロな雰囲気が漂ってくる |
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福島のシンボル 信夫山。 源融の「みちのくの しのぶ(信夫)もぢずり誰ゆえに・・・」で
芭蕉も訪ねた「信夫文知摺石(しのぶもぢずりいし)は、この信夫山ではなく、阿武隈川を渡って
反対側の東に2キロほど行ったところにあるようだ |
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阿武隈川の支流、松川を渡る。この先、電車道と呼ばれる旧道を行くが、かつて福島から
飯坂温泉の湯野に至る軽便鉄道があった道である。今、その名残は何もなさそうである
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瀬上宿 |
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瀬上宿に入ると旧街道の雰囲気が上昇する。 国登録有形文化財の嶋貫本家
素朴だが、奥州街道では多くない格子風景である
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ここにも格子がある
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鉄道を悩ませた越河峠へ |
この日、藤田宿を過ぎてさらに進むと、旧街道は福島盆地を見下ろすような高さに上って行く。その頂点は、今は国見峠と呼ぶらしいが、当時は越河峠と呼ばれる難所であった。今回歩いてみると、さほどの坂とは思わないが、鉄道にとっては厳しい坂だったのである。小学校当時、仙台、東京を往復するときの忘れがたい世界であり、乗っていてもっとも楽しい区間でもあった。窓を開けてみた風景が今も目に焼き付いている。そのころ、この峠越えには蒸気機関車が先頭だけでなく、後部にもついて2両の機関車で押し上げていた。峠の名を知らなかったが、坂の途中に「こすごう」という小さな駅があったことは記憶に残っている。今回歩いた貝田宿にある貝田駅の記憶はないのだが、越河駅の手前にあって、どうやらそのころは駅ではなくて信号所だったようだ。
蒸気機関車が仙台から福島方向に喘ぎながら昇る線路の右側は削られた崖であった。左側は防風林であろうか、あるいは防雪林かもしれないが杉木立が続き、木々の間からは低い土地に集落が並んでいるのが見えた。喘ぎながら登る機関車からの猛烈な煙が林に飛んで心配になったことも覚えている。ここで、かつて蒸気機関車の煙から大きな火事があったと聞いたことがあったのかもしれない。旧日本鉄道が黒磯と塩釜の間に鉄道を建設したとき、線路は現在よりも奥州街道に近い、すなわち集落に近いルートを走ったが、明治時代
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貝田駅付近の東北本線線路の移設跡 : 赤ラインが旧線路 |
に、排煙から茅葺屋根への飛び火による大火に何度か見舞われたという。そのため、集落との間に距離をとって現在の位置にルート変更をしたようで、当時の跡が貝田駅近くの旧街道近くに残されている。右図に示した赤いラインが旧線路である。そういえば、記憶の中に、この峠越えで列車が杉林を通るときの線路には、なんと呼ぶのか知らないが、黒いシェルターがあったような気がする。火の粉除けだったのだろう。
しかし、今回旧街道を歩いても、列車の窓から見ても、すべてが様変わりしていて、思い出とは結びつかず、残念である。車窓からわずかな杉の木が見えたが、当時の杉だろうか。
雪景色の中ではさらに迫力があった。激しい息遣いのあと、やっと峠を越えると、先頭の機関車から「ボーッ、ボッボッ」という汽笛が鳴り、すぐに同じパターンで後部機関車も応えた。蒸気を送り込む力行運転を終えて惰行運転に切り替える、という合図だろうと勝手に思っていた。あらためて今回、調べたところ、まさにその通りだった。逆に惰行運転から力行運転に移るときは、「ボッボッ」「ボッボッ」である。峠からの下りは、軽快な音で、こんなに早く走ってて大丈夫だろうか、と心配になるほどのスピードだった。ことのきのリズミカルな音は今も頭に残っている。
実は、この越河峠は東北本線最大の難所で、当初は阿武隈川の流れに近く、急坂を通らなくてすむ現在の阿武隈急行線に近いルートで計画されたそうだ。ところが、このルート沿いでは養蚕が盛んで、蒸気機関車の排煙が養蚕に悪い影響があるとして大反対にあい、やむを得ず、今
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阿武隈急行線と東北本線 (Yahoo Mapによる) |
の急勾配ルートとせざるを得なかったという。現在の阿武隈急行は、ずっと後に建設された旧国鉄丸森線を引き継いだ第3セクター鉄道であり、福島から東北本線の槻木まで走っていて、その距離は東北本線とほぼ同じという。当時の状況が少しでも違っていれば、東北本線がこの阿武隈川沿いのルートを走っていたかもしれない。もし、そういうことがあったとしたら、白石には鉄道が通らなかっただろう。不思議な気がする。
もちろん、当時の越河峠の難所は、今、立派に複線電化されて電車列車が何の苦もなく軽快に走っている。飛び火の問題も解決して、すべて良し、である。
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<参考文献>
・大島登志彦:わが国の幹線鉄道の建設と鉄道忌避に関する地理的考察、高崎経済大学論集55-3(2013) |
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桑折宿 |
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桑折陣屋跡に建つ旧伊達郡役所
桑折宿は、伊達氏草創期の本拠地の一つで、その後、蒲生領、上杉領を経て幕府直轄領
となり代官が置かれた。近くの半田銀山を持ち、奥州街道と羽州街道が分岐し、
阿武隈川には桑折河岸もあって、宿場町としても町としても栄えた
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土蔵造りに格子。久しぶりである。美しい!
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大正ロマンの世界
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奥州街道と羽州街道の追分である。
左に行くと羽州街道で山形、秋田方面に向かう。右方向が、今回行く奥州街道である
羽州街道方向に少し行くと「半田付け」の語源となった半田銀山の跡がある。
桑折宿の北北西の半田山一帯にあり、一時は佐渡銀山、丹波の生野銀山とともに
三大銀山の一つに数えられたという。最盛期には8万人が働いていたという。
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藤田宿-貝田宿 |
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厚樫山。 頼朝軍と欧州藤原氏が戦い、奥州合戦の帰趨を決定づける戦いのあった阿津賀志山(あつかしやま)である。 頼朝が率いる鎌倉軍に対して、奥州軍はここを防御ラインと位置付けて延長3~4キロの大防塁を築き、2万騎余りが布陣したが、別動隊に背後を突かれて総崩れとなった。
今、防塁が発掘されて見ることができるという。
芭蕉は「夏草や つわものどもが夢の跡」を平泉で詠んだが、平泉では戦闘がなく、この阿津賀志山こそがふさわしいとも言われる |
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旧東北線軌道のレンガ橋。かつて、東北本線はこの橋の上を走っていた。
蒸気機関車の煙による火災が多かったために線路を北の現在地に移設したがこの橋は残った。
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鉄道線路の移設跡を見ようと行った秋葉堂にはたくさんの石仏があった。多くは庚申塔であったが、珍しい月待塔二種を見つけた。
左上の写真は通常の二十三夜塔で奥州街道沿いに多く、珍しくはない。
左下は二十夜塔らしく、初めて見たはずである。旧暦の20日の月を待つ講の記念塔だろう。
右上の写真は、さらに珍しい三日月塔である。三日月はすぐに沈んでしまうため、三日月信仰そのものが少ないというから、この講の記念塔も珍しいのではないかと思う。
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前日に愛用のカメラ、α6000が故障したため、この日は急遽福島で買った超小型コンパクトカメラで撮影した。手動設定ができないため「味」は出せないし、加工時にレンズのひずみ補正に手間がかかった。しかし、WEB用には解像度を落とすので、超コンパクトカメラでも、そしてスマホでも使えそうである。
明日は、いよいよ白石である。旧友が待っていてくれる。 そして仙台がぐっと近づいた |
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