塚原の用水堀
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塩名田宿で千曲川を渡る |
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塩名田宿で千曲川を渡る。 かつては「筑摩川」と書かれていた
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望月へ向かう道を間違えた |
望月宿に到着 |
壬戌紀行の当時、岩村田から先は人家もまばらなところだったようである。 塩名田宿は「駅舎わびしき所也」、芦田宿も「芦田の駅も又わびしき所也」と片付けられている。 木曽路を通過して江戸に向かっている南畝は、宿泊した望月の家を「今宵の宿の家、土もてぬれる壁なり。 木曽路のごとき板家にあらず」と書いている。 京から下ってきて、久々に土蔵壁か塗籠壁を見たのかもしれない。 やっと豊かな町に出たという思いかもしれない。 しかし、こちらは逆に、これから向かう木曽路の板家への思いが高まってくる。
この望月宿の近くは、飛鳥時代から鎌倉時代まで官牧として栄えた。 ここから貢いだ馬を陰暦十五夜満月の日に、天皇が紫辰殿でご覧になったことから、この牧場に望月の名がついたという。 望月の宿は、この御牧が原の麓に発達したもので、今も古い建物が当時の雰囲気を伝えている。
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連日、蕎麦ばかり
望月宿での昼食は蕎麦にした。 信州に入ってから連日蕎麦ばかりである。 実は前日、本店が小諸にある有名な蕎麦屋の支店が岩村田(佐久平)にあるのを見つけて、夕食をそこの蕎麦にすることにしたのである。 ビールで祝杯をあげて、さらに地酒、てんぷら、野沢菜の漬物、味噌おでん、かまぼこ丸ごと一本分の板わさまで楽しんだ。 板わさは、メニューにないが、かまぼこ一本分ならOKというのだ。 半分をヤドまで持ち帰ることにした。 さらに家内の希望で、名物という「くるみおはぎ」まで味わった。
その上で、仕上げとしてざる蕎麦を注文したのである。 その店の蕎麦の量が多いことは、かつて上田にある支店で経験して知っていたのだが、うっかり気楽に頼んでしまった。 結果、東京の3、4倍はあると思われるざる蕎麦に参ってしまったのである。 途中でギブアップの家内の分まで引き受けるはめに陥った。
もちろん、おいしいそばであったのだが、ヤドに帰ってからも苦しくて、「もう、蕎麦はしばらく見たくない」と宣言したのだ。
にもかかわらず、この望月で、またまたおいしそうな蕎麦屋を見つけたので飛び込んでしまったのである。 信州蕎麦とのお付き合いが当分続くことになる。 |
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茂田井 |
間の宿である茂田井に続く土蔵造りの白壁が見事である。 豊かさを象徴する街道の光景である。 ここは酒造の町である。 武重本家酒造は若山牧水が愛飲したとのことで、その名の銘柄もある。 大澤酒造の建物も立派である。 あまりにも道が狭いので、新道はこの町を避けて迂回したという。そのおかげで、家並みがそのまま残されたという。 実に美しい。 じっくり写真を撮りたいところである。
このような美しい家並みに加え、遠くに見える山々や沿道に絶えない花々が、この旧中山道の美しさをさらに引き立てている。 |
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蔵造りの白壁が続いて、実に美しい
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茂田井は酒造の町だが、酔って落ちる人はいないのだろうか
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酒造会社のうちの一軒、大澤酒造
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芦田宿に到着 |
芦田宿本陣の客殿が残っている。 江戸時代の特徴を持つ破風や懸(げぎょ)魚、蟇股(かえるまた)などが見事である |
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芦田が今回の終点である。 ここから先は交通機関がない。 次回はいよいよ、碓氷峠以降最大の難所と思われる和田峠越えである。
芦田のバス停で1時間後にくるバスを待っていたら、こども達が走ってきて、ランドセルとヘルメットをバス停にぽーんと放り出して、どこかに走って行ってしまった。
しばらくしたら、「ヤモリをつかまえたよー」、「カニを見てーっ」と走って戻ってきた。
昔を思い出した。 こども達の風景はちっとも変わっていないのである。
でも、迎えにに来た大型のスクールバスに、賑やかに乗り込んで、みんな帰ってしまった。 そのバスには白樺湖方面と書いてあった。 バス停には、ポリ袋がひとつ、ポツンと残っていた。 カニが入ったままでである。 忘れてしまったらしい。
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