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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その6

坂本宿-碓氷峠-軽井沢宿-沓掛宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
坂本宿-碓氷峠 11.6 km 7.5 km 13,120 この日の出発点は横川(坂本宿まで2.5km)
碓氷峠-軽井沢宿 2.5 4,776
軽井沢宿-沓掛宿 4.5 4.8 7,775
合計 16.1 km 14.8 km 25,671
日本橋からの累計 151.3
km 154.7 km 225,971 日本橋からの累積標高 : 1,595m
route_map
2007年6月
  

坂本宿から碓氷峠を越え、軽井沢宿を経て沓掛宿へ

  
   

  
左がスタートの横川、中央が碓氷峠、右端が沓掛(中軽井沢)である。 区間2の坂本宿を出た後、刎石山までの急坂はきつかったが、まだ元気な時間帯だったので、一気に登ってしまった。 その後の比較的ゆるい登りがむしろきつかった。 虫の大群が邪魔をして休憩がほとんど取れなかったからかもしれない。 峠を越えた軽井沢、沓掛は標高1000m弱の高原で、さすがに涼しくて空気が気持ちよかった。
  

碓氷峠越え
 決戦にのぞむような心境である。 中山道最大の難所といわれる碓氷峠である。 標高388mの横川から1194mの碓氷峠まで標高差800m余りだ。 江戸時代の旧中山道のほかに、部分的だが古道である東山道や、旧中山道から分かれる皇女和宮が降嫁の際に作った和宮道、そして明治天皇のために作られた御巡幸道などがある。 幕府の防御上の都合でわざわざ厳しい道を通したと聞いているが、その後、いろいろな新道が出来ているのは、あまりにもきつい道だったかららしい。

 安中市が行っている安政遠足(とおあし)のコースと共通する部分では、その標識が大いに助けてくれるが、そうではないところで旧中山道を案内する標識は殆んどない。 けもの道のような旧道には草が茂って踏み跡が見つからないところさえある。 二万五千分の一の地図にも出ていない道である。 峠を越えたあとも軽井沢に向けて降りる道では、車道のガードレールに阻まれてどこから入るのかも分からない。 迷いやすいとは聞いていたが予想以上であった。 中山道をPRしている行政はパンフレットを作るだけらしい。

 しかし、独り歩きの心細さから前日になって急遽入手したGPS受信機のおかげで、大きなロスもなくエゾハルゼミの大合唱が迎えてくれる峠にたどり着いた。 軽井沢までの、人影のない旧道の下りも無事に歩くことが出来た。 立ち止まることを許してくれない、虫の大群の襲撃には少々閉口したが、これも事前に知ったので、虫除けスプレーを持参して切り抜けることが出来た。

 峠の分水嶺上に建つ峠の茶屋のご主人に励ましてもらった。 碓氷峠に較べれば次の難所、和田峠はさほどでもないという。 標高が1600mもあり、標高差も大きそうで、地図を広げてはため息をついていたのだ。 本当ならうれしい。

 軽井沢宿はいわゆる旧軽井沢である。 聞いてはいたが、原宿なみの町並みと人出に驚いて、急いで通過した。  旧本陣跡などを示す標識は一切ない。 華やかな町を出て、「沓掛」という素朴ですばらしい地名が残念ながら消滅してしまった沓掛宿、現在の中軽井沢まで、久しぶりの平坦な道を急ピッチで歩いた。 街道歩きの奇妙なスタイルは別荘地にふさわしくないし、碓氷峠無事通過を早くビールで祝いたかったからである。 

 中軽井沢駅前の老舗の蕎麦屋で、電車待ちの時間にひとり乾杯した。 瓶ビールの味は、生涯で二番目のうまさであった。 殆んど最高得点である。 これまでで一番うまかったのは、旧東海道の桑名の旅館で飲んだビールである。 このときも今回同様に朝4時起きで、知立から宮宿経由でせいいっぱい歩いたあと、暗くなって旅館に着いた。 そのまま、旅館の息子さんがクルマで送り迎えしてくれる温泉にたっぷりつかり、徹底的にのどを乾かしてのビールだった。 名物の蛤と白魚が食欲を猛烈に刺激してくれたこともある。 これほどうまいビールはほかに記憶がなかったのだ。 今回のビールも、そのときにかなり近い味であった。 急坂の峠を越えた疲れと、なんとか通り抜けた安堵感、そして、駆け抜けた軽井沢の繁華街で、ビールののぼりがはためくレストランを横目に見て 喉の渇きが高まったからだろう。 この蕎麦屋さんの若い店員の心のこもったもてなしがうれしい。 気持の良い店だったし、店内には昔から多くの人たちの間で評判の味らしい痕跡があることから、時計を見ながら思わず予定外のざる蕎麦も注文した。とてもうまい蕎麦であった。 もちろん手打ち蕎麦である。 帰ってから調べて分かった。 この蕎麦屋さんは、沓掛宿の旅籠であった鍵本屋が明治初期に蕎麦屋に転業したという。 なるほど。 江戸から信州まで歩いて来て味わった正真正銘の信州そばである。
 ともかくも、うれしい峠越えであった。
 
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   坂元宿 旅籠かぎや
刎石に向けての急坂の途中にある「覗き」(標高735m)から見た坂本宿の町並み。 左上の横川から登ってきた。 右上は妙義山の一角である

 
坂本宿は計画的に作られた宿場で、この通りの真ん中に用水流れていたらしい。栄泉の坂本の図にもその用水が描かれている



刎石の柱状節理
碓氷峠への道に迷う
 坂本宿から碓氷峠への登りルートの一部分である。地図上の緑色の線が、計画したルートである。ガイドブック情報等を利用して、あらかじめカシミール3D上の2万5千分の一の地図に入力したものだ。 赤い線は実際の歩行軌跡である。 GPSが自動的に記録したデータを、帰ってからパソコンのカシミール3Dにダウンロードして表示したものである
 右下の赤線部分に、道に迷って行きつ戻りつした記録が残っている。 草に覆われて曲がるべき道が分からず、結局、崖をよじ登ったのはここである。 ハネ石柱状節理に向けて登山道は九十九折だったにもかかわらず、赤線がまっすぐであるのは、地形と樹木のためか、必死に登る際にザックにくくりつけたGPS受信機の向きが悪かったためか、うまく衛星電波を捉えられなかったことが原因と思われる。 ハネ石柱状節理から刎石山までや、左上の座頭ころがし付近の緑と赤の線の食い違いは、ガイドブックの記載が不鮮明だったり、間違いだったための不正確な入力によるズレであろう

 今回持って行ったGPSでは、液晶画面に地図を表示することが出来ないが、経度緯度が正確にわかるので地図上のどこにいるのかが簡単にわかる。 ルート間違いの深みにはまることが避けられた。 これまで度々悩まされてきた問題のひとつが解決しそうである。
峠への道は新緑に輝いている。



左右両側が深い谷になった堀切。
小田原攻めの際にこの地形を利用して北国勢を防いだが
上杉景勝、前田利家によってやぶられてしまったという。
イス土産の小さなカウベルをぶら下げて歩いた。
熊に効いたかどうかは分からないが、
鈴の音は、誰かと話しながら歩いているような
安心感を与えてくれた。
  
  
    碓氷峠の見晴台は観光地である。 前回にすぐそばを歩いてきた妙義山が見える。 懐かしい
碓氷峠である
熊野神社の本殿のど真ん中、茶店の真ん中を群馬県と長野県の県境が走っている。賽銭箱も群馬側と長野側の両方にひとつずつ並んでいる。 これからの安全をお願いしたのだが、間違えて群馬県側にお賽銭を入れてしまった。 無事に峠を越えたお礼へと主旨変えしたが、遅すぎたか。
分水嶺もここを走っている。 休んだ茶店の真ん中を走っているそうだ。 ここで流した汗は日本海と太平洋のどちらへ流れるのだろう。
 
 
軽井沢宿を通過
軽井沢を紹介した英国人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショウの碑がある記念礼拝所
     
軽井沢、沓掛、追分の浅間三宿は、当時、ヒエとソバしか育たない土地だったといい、また天明の浅間山の大爆発では、軽井沢宿でも被害が出て、旅人の間に大混乱が生じたらしい。


竹下通りのような現在の軽井沢宿を駆け抜けてから、改めて広重の「軽井澤」の図を眺めた。
暗くなった街道の焚き火でキセルに火をつけようとしている旅人の風景には、心を揺さぶられる。 旅の原点、街道の原点の光景であり、絵である。
うしろの山が離山である。 
皇女和宮が降嫁する際は、山の名を「離山」ではなく、「子持山」と呼んだそうである。 

この辺は、少々懐かしいころである。 山も別荘地も半世紀前とさほど変わらないように思うが、こんなホテルが出来ていた。なぜか風船まで飛んでいた
沓掛宿に到着した。
難所を克服した喜びがある。
この老舗の蕎麦屋・かぎもとやで一人乾杯した。
これまでで、二番目にうまいビールだった。

かつての信越本線は、しなの鉄道に変わり、
一時間近くも待つことになった。

そのおかげで、おいしいビールとおいしい蕎麦に出会ったのだった。
  
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