伊豆大島ウォーク
2004-3
腹の出た年輪の物語
三浦半島ウォーキング


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2月、3月に限って久里浜から伊豆大島までジェット船の航路が開設された。 三浦半島、房総半島を歩くときにいつもはるか海上に見ていた大島であるが、まるで月を見て思うように、そう簡単には行けないところと思い込んでいた。 そこにたった1時間で行けるのである。 東京に行くよりも短時間で行けるのである。 
ということで、春の大島を歩いてみることにした。 ただし、この季節、春の嵐が邪魔をするから本当に行けるのか、帰れるのか、と気をもむことになったのだが。 


東海汽船のジェットフォイルは、音はジェット機、乗り心地はバス、スピードは電車、といったところで、本当にたった1時間で別世界に飛び込むこととなった。
朝10時過ぎに元町港に到着してから、初日はバスで海岸ぞいを一周しながら見物するコースに参加し、翌日は我々だけで三原山をハイキングすることにした。
数十年前、ということは当然、18年前の昭和61年噴火より前であるが、数度訪れたことのある大島であるが、あの噴火と時の流れ、そして自分自身も年を重ねて、かなり違った大島を味わえるのではないかと期待が膨らんだ。 
61年噴火の時に、自宅の窓からはるか遠く溶岩の噴出する炎の柱を望み、とどろく空振の音に異常な興奮と恐怖心を感じた記憶がある。

その大島である。
元町港をバスで出て南に下った最初に、我が「腹の出た年輪の物語」にふさわしい景色と出会った。 道路工事中に発見されたという南部の「地層切断面」である。 気の遠くなるような時間経過を刻んだ、まさに地球の年輪である。 1万4千年の間に噴出して堆積したスコリア(軽石)や火山灰の地層で、これによって大島の火山活動の履歴がわかるという。



かつて各地からの漁船が埋め尽くすように賑わったという波浮の港である。 ここに滞在して漁船の船員たちの宴会で踊った踊り子が川端康成の「伊豆の踊り子」のモデルとなったいう。

旧港屋旅館をはじめ、古い町の面影が若干残っている。
この波浮の港も、もともとは9世紀に割れ目噴火によって発生した水蒸気爆発でできたもので、後に通路を開削して港に仕上げたところという。
なお、翌日訪ねた郷土資料館の方によると、大島全島、どこからでも噴火する可能性があるとのこと。 こう聞くとどこにいても足元が心配になってくる。
  
くさやを試食し、地魚のおいしい寿司を味わった後、東海岸を北上した。 筆島も火山の残骸という。

  大島公園内の椿園の花たち。 バラのようだ。
大島の桜は野生種の「オオシマザクラ」であり、ソメイヨシノはこのオオシマザクラと江戸彼岸桜を掛け合わせたものである。
この大島桜の大きくて純白に近い白花は近くから見てももちろん美しいが、山で新芽の緑と交じり合ってパステルカラーに埋めているときの美しさがすばらしい。
3月中旬の今、今年は特に早いわけでもはないそうだがすでに時期を終わろうとしている。
・南東の波浮ではすでに散って葉桜となり
・北東の大島公園では花吹雪が舞い
・北西の岡田でちょうど満開
と、所によって開花の進み具合がずいぶん違うようだ。 木の種類に違いはないそうだ。 三浦半島にもオオシマザクラが多いが、開花は大島の方がかなり早いようである。









大島桜と椿の競演も大島ならではかも知れない。

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二日目の朝、宿の窓から目をこすりながらまだ明けきれていない海を見ると、沖に大きな船が煌々と明かりをつけて停泊している。 
昔を思い出した。 竹芝桟橋を夜出て、夜光虫が光る夜の海を走って岡田港の近くで停泊し、夜の明けるのを待った橘丸だった。 船酔いと興奮で眠れぬままに上陸して三原山に向かったものだ。
今、船は新しくなっても同じ光景である。
 急いで着替えて桟橋に駆けつけた。 客を待ちかまえる人たちはレンタカー屋さんが多いようだ。昔は宿屋の人たちだったのだろうか。 船のクレーンで下ろす貨物はみなコンテナー入りである。 これも様変わりしている。
この、「かめりあ丸」は利島から新島、式根島に寄って神津島に行くようだ。
 出航を待つ人がデッキから見下ろしている。
ジェット船にはない船の情緒がある。

大島は猫の多いところである。
我々が泊まった岡田地区は特に多いようだ。
採れたてのさんまをたっぷりもらって、こそこそせず、ゆったりとしている。


昨日のコースに続いて宿でもご一緒だったKさんご夫妻と共に、おいしい魚料理で大満足だった民宿を出発し、バスで「御神火茶屋」、いや、今はそう呼ばずに「三原山頂口」と呼ぶようだが、に到着した。
いよいよ三原山である。 遠目に見る内輪山は昔と同様に雄大である。 内輪山を下る黒い帯はは昭和61年噴火による溶岩流とのことである。

内輪山までのカルデラ部分の遊歩道は昭和61年の噴火による溶岩で途中、路がふさがれてしまった。
舗装された遊歩道の上に溶岩が覆いかぶさっている様子がわかる。
(左の写真)
内輪山に登り、Kさんとお別れして我々は反時計回りでお鉢めぐりをすることにした。 避難小屋横からいったん南に向かって、昭和61年の噴火で成長したという三原新山横をまわる。
このころから風がひどくなる。 
通路のすぐそばにも小さな噴気孔があり、手を近づけてみると熱気を感ずる。
南東に波浮方面の平坦な緑と海を臨みながら今度は北上する。
ひどい風にたじろぐ。
しかし、中央火口の雄大さに感激する。

なお、この伊豆大島ページの最初に掲載した火口のパノラマ写真は、この場所から撮った別の2枚から合成したものである。

東側に広がる大砂漠(裏砂漠)である。
山は櫛形山。


この写真を撮ったころは猛烈な風で、ロープにつかまり、腰を落して必死に歩いていた。

これがスコリア。
三原山では、白い火山灰が降ることは少なくて、
このような黒っぽい軽石・スコリアが噴出し、
風に乗って降り積もるということだ。

広大な裏砂漠はこのスコリアで出来ているのだ。

北東側の剣が峰近くから見た中央火口の南壁である。
迫力のあるすばらしい景色だが、風に飛ばされそうで、生きた心地のしない歩行の途中だったので、充分に堪能したとは云いがたい。

家内は、「写真なんかやめてー」と叫んでいた。
本当に、「吹き飛ばされて落ちて死ぬかと思った」そうである。
剣が峰を越えて北側に出た後、コースを北の大島温泉ルートに取った。 もう風の心配もなく、裏砂漠の北のはずれを見ながら雄大な溶岩原を行くコースである。下の写真は、剣が峰近くに61年噴火で新しくできたB火口(噴煙が見える)から続く溶岩原がスコリアの砂漠につづくゆるやかな傾斜である。

手前は61年に流れ出た溶岩。先は裏砂漠の一部。

黒いスコリアと枯れた植物のコントラストが美しい。
ごつごつした溶岩の山とこの美しいコントラストの原が延々と続く。
風もなく、緩やかな下りゆえ快適である。
火口一周コースの分岐点から大島温泉までのコースは、入手した案内図では65分と書いてあるが、快調に40分で走るように歩いてしまった。家内の脚は、登りは遅いが下りになると猛烈に速い。 写真を撮っていると遠く離れてしまう

さらに下るとススキの原となり、次第に緑も増えてくる。
外輪山にある大島温泉ホテルが近づくと急激に椿などの林が現れる。
スコリアの砂漠に、まずススキが生え、ガクアジサイの原に変わり、そして椿の若木の林が生まれる、という順序で砂漠から林に変化して行くようである。

南東からの強風で、今日の出帆港は岡田港となった。
しかし、大島からの出航はさして心配していない。
問題は、久里浜に入港できるかどうかである。 風でフェリーがよく止まるので心配なのである。
時間調整と昼食のためにいったん元町港に寄った。
昨日の賑わいがうそのようである。土産物屋にはまったく人影がない。
桟橋にはしぶきが上がっていた。(左の写真)
岡田港は、逆に人があふれていた。
元町と岡田は昔から競争というより共生の関係にあるようである。
この島は全島避難で示されたように全員で協力し、助け合いながら、ごみひとつない街と美しい自然を守っているようで気持ちの良い嬉しい島である。
岡田港で聞くと、風は強いが久里浜港にどうやら入港できるとのことである。 もしも、入港できなかったらどうなるか、と聞いたら、竹芝桟橋まで行ってしまうのだそうだ。 まあ、それもいいか。 先日も、フェリーの欠航で南房総からの帰りに延々と回り道したことだし。
東京湾に近づくほど波、うねりがひどくなったがジェットフォイルは時おりしぶきを上げる程度で揺れにはまったく関係がない。 穏やかだった往きと変わらない。 船酔いの心配のない船であることがわかって家内も安心したようだ。 残念ながら、次に期待する八丈島にこの船は行かないようだが。
無事久里浜に着いた。 岡田港からなんと50分少々である。 ほんのひと走りでまた現実に戻ってしまった。

ご覧いただきありがとうございました。

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