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ゆっくり・きょろきょろ東海道を歩く
その18

庄野宿-亀山宿-関宿
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区間 五十三次距離表 カシミール 歩数計 備考
庄野宿-亀山宿 7.9 km 9.3 km 14,364 庄野宿:・・・・高札場
亀山宿-関宿 5.9 5.6 8,400 亀山宿:・・・・西町池前
合計 13.8 km 14.9 km 22,764 関宿:・・・・百五銀鉱前
日本橋からの累計 389.3 km 414.0 km 583,830
2007年2月

      
庄野から、亀山を経て関へ
東海道の家並み景観の頂点
 東海道に面している家々は誇りを持っている。 今や、東西の交通路としての役目を終えたが、古代より都と東国を結ぶ重要な道で、時代の流れを見つめてきたのだから当然である。 しかし、戦災に遭い、あるいは大規模な区画整理や新国道の建設により東海道が寸断され、建物も壊された。 これらを免れたところで、そもそも生活や商業スタイルの大変化によって時代にマッチした建物に建て替えられてしまった。 ヨーロッパなどと違って、何世紀も耐えることができない木造建築物であるから、これも当然である。

 にもかかわらず、残っている。日本橋以来、江戸時代といわなくても、明治、大正から昭和初期までの伝統的な建物が、点々と魅力的な姿を見せてくれた。 西に向かうにしたがって、その濃度が上がってきた。 有松の見事な家並みは現役といえそうだし、もっと素朴な伝統的家並みは桑名から庄野宿、亀山宿へ続いた。 そして関宿で頂点に達したようである。

  
早朝、庄野を出発し、亀山宿に向かった

 
鈴鹿の山と鈴鹿川の流れが実にのどかである
  

 





  
 伊勢では、町家の庇(ひさし)にいろいろな特徴がありそうだ。 
 庄野から亀山、関にかけて、めずらしい「雨よけ(霧よけ)庇」が見られる。 軒下に、高さ一尺ほど帯状の覆いが下がっている。 また、二重の庇も良く見かける。 これらはこの地方独特なのだろうか。 この先の近江で注意してみたい


 (写真は亀山宿で)


  
  
 
 
亀山から関に向かう
 
歴史の道は格子の道
 伝統が残るのは宿場だけではない。椋の巨木の残る一里塚がある野村や野尻など、亀山から関に至る街道筋に見事な連子格子の家並みが続く。 広い庭を持つ新しい家も多い。 当時、禁制により旅籠などを除いて二階建てが禁じられていたため、平屋建てを装って考えられた中二階、屋根裏式の「つし二階建て」構造なのだが、わざわざ現代の家に再現した家々である。 塗籠の連子窓もある。

 本格的な二階建てを建てず、こうした伝統的な町家が、宿場を離れた地区、恐らくもともとは農家ではなかったかと想像される地域に新たに建てられるのである。 材料も、見たところすべて伝統的な素材を使っているように思われる。 文化の継承を感ずる。 京都の町家の伝統が京都周辺の農家の構造に影響、進出したといわれるが、こうした町家構造の農村への進出がこのあたりの地域にもあったのかもしれない。 住む人々の心が伝わってくるような気がする。


 屋根、壁、窓などシンプルで品格あるデザインの、そのモダンな美しさにハッとする。 実に美しい街道である。


  
  左上の写真が、見事な椋の巨木のある野村の一里塚である。
 説明によると、樹高が20mとあるが、書かれた石碑そのものが
 ずいぶん古そうである。 その後も成長して今や樹高は30mほど
 もあるのではないだろうか。
 
 東海道の一里塚でこれほど見事に残っているところは大変少ない。
 一里塚に植えられた木は、榎木(笠松一里塚参照)や椋が多いよう
 だ。

 上下の写真の通り、この辺の街道筋の見事な連子格子やつし二階建ての家並みには、
 新築の家も多い。

  
  
東海道の食べもの事情
 歩いていて困ることの一つは、東海道沿いに食堂が大変少ないことである。 コンビニもスーパーも1号線と合流しているとき以外はほとんどない。 朝食や昼食になかなかありつけないこともある。
 
 弥次さん・喜多さんは道中、宿や立場の茶屋で空腹を満たしていたようである。 腐りかかった魚を出されて閉口したり、トイレに駆け込むことも度々あったようだ。 腹薬が旅人の必需品だった様子がわかる。 田町の「反ごん丹」なる薬が登場する。 ご両人、昼にも、ときどきは酒を楽しんだようだ。 酒が半分水だ、と怒っている場面もある。
 
 「広重の五十三次の図には、饅頭などの甘いもの屋がかなり登場するのに、飲み屋が一軒しか出てこない」と、お酒好きの某大学S先生がおっしゃる。 さっそく、保永堂版、行書版、隷書版の広重五十三次を調べてみたら、確かにその通りである。 茶屋が描かれている絵が19枚ある。 そのうち、「甘いもの」が看板や幟に書かれている茶屋の絵が8枚。 「・・餅」が多い。 鶴見の「米饅頭」、浦島の「亀の甲せんべい」、江尻の「追分羊かん」、日坂の「わらび餅」、掛川の「振袖餅」、日永の「なが餅」、関の「関の戸」、など今も有名なものが多いようである。

 一方、酒は吉原宿の「山川白酒」だけである。 と言ったものの、この白酒とは本当に酒か、と心配になった。 雛まつりにつきものだから、甘酒ではないかとも思えた。 結果、甘酒ではなく、れっきとした酒で、濁り酒とも作り方が違うことがわかった。 白酒は蒸した米、もち米と米麹にみりんを混ぜて熟成させ、飯粒をすりつぶした粘稠な酒で、アルコール分は10%程度とか。 歌舞伎にも登場する「山川白酒」は、江戸時代に呼ばれた名称とのこと。 今、神田猿楽町にある豊島屋が老舗らしい。 なお、丸子のとろろ汁屋の絵にも主役ではないが酒の表示はある。 当然、その気になれば、どこの茶屋でも酒は飲めたのだろう。

 甘みと酒以外のものが看板などに書かれているのは9枚の絵である。 「二八そば」(保土ヶ谷)、「あなご茶漬け」(品川)、「さざえのつぼ焼き」(由比)などで、こちらも名物である。 他に、魚の串焼きが絵の中に登場する茶屋が2枚ある。
 
 当時は、甘党でも辛党でも五十三次での食いっぱぐれはなかったようである。



  
  
 
  
関宿に到着
  
  
関宿でタイムスリップ
 関宿は70%が戦前の建物であり、そのうち江戸時代から明治時代の建物が200軒以上残っているというから、これはすごい。 東海道1.8kmに渡って伝統的家屋群が続くのである。 早くから国の重要伝統的建造物保存地区に指定され、電柱、電線が撤去された家並みは、踏み込んだとたんにタイムスリップによるめまいを感ずるほど美しい。

 なぜ、戦後から経済成長期にかけての混乱期をくぐり抜けて生き残ったのだろう。 と思って町の資料を見ると、なんと昭和4年から歴史的建物保存の呼びかけが始まったという。 実際の保存活動が始まったのはずっと後の昭和50年代だそうだが、早くから地元に、美しい伝統の保存への強い意志があったのだ。 世の中の変化に取り残された幸運ではなかったのだ。 しかし、奇跡である。 充分に世界遺産の価値がありそうだ。 今、観光客はまばらである。

 昔、こうした建物や道に繰り広げられたであろう人々の生活を想像してみた。 弥次さん・喜多さんは、お伊勢さん参りのために、日永の追分から伊勢街道に行ってしまい、参詣後もここ関宿は通っていないのだが、想像の世界ではやはり主役として登場だ。 最近読んだ、民俗学視線で描かれた当時の赤裸々な庶民の様子も、日常生活の想像を助けてくれる。 通りや裏庭から元気な声が聞こえてくるような気がする。

 まだ、関宿の半分も歩いていない。


  
右の写真は関宿の東の追分。 鳥居をくぐると、伊勢神宮に行く伊勢別街道である。 常夜灯や榎木の一里塚のある広重の隷書版とほとんど同じ光景である。 日永の追分から伊勢街道を行ってお伊勢さんにお参りした後、この別街道を利用して東海道に戻る旅人も多かったらしい。 鳥居は、20年に一度の伊勢神宮式年遷都の際、内宮宇治橋南詰の鳥居がここに移されるという

  



  
      
今回の終点は関である。 
今、関西本線の列車は、亀山で乗り換えないと名古屋方面には行けない。

次回はここ関からの再スタートで、いよいよ鈴鹿峠を越えて近江に入る。
東海道歩きも終盤で、京の都の香りが
漂ってきそうである


関駅で買った、手書きの新幹線「のぞみ」切符
     

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