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  旧甲州道中を歩く  
旧甲州道中 その12

金沢-下諏訪
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
金沢宿-上諏訪宿 13.30 km 15.71 km 22,173 GPS測定値と歩数の金沢は青柳駅入口
 上諏訪宿-下諏訪宿 5.13   5.47   8,050    
合計 18.43 km 21.18 km 30,223
日本橋からの累計 210.11 km 239.41 km 347,708 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
  
2015年12月
  
 
 
  
 
 
 
 
 
 金沢宿から上諏訪宿を経て、下諏訪宿へ
   
 
旧甲州街道歩きの最終日である。美しい紅葉の季節は終わったが、雪はまだ高い山に見られるだけで、里もまだ冬枯れには至っていないように見える。 師走の慌ただしさも、旧街道には来ていないようであった。
 
 
 旧甲州街道からもっとも近いJRの青柳駅をスタートした 
 
      
    
 
 不動明王(左、右下)  庚申文字塔(右上) 
   
 諏訪盆地を行くにしたがって、道端の野仏や路傍神に変化が見えてきた。あの素朴な甲州街道のこころ「丸石道祖神」はすっかり影をひそめてしまった。信州名物の双体道祖神がつぎつぎに登場してきた。双体道祖神は、このページ最後のコラムをご覧いただきたい。
 
  
 
   
  
    
    
   
  
  
 
  
     
     
 
   
   
 
 
  
   
 上諏訪宿に入る前の旧道に「雀おどり(烏おどし)」を見つけた。
このあと、下諏訪宿に至るまでの旧道には、この棟飾りが続々と登場する
 
 
 
 
 
 
  
 
甲州街道に「雀おどり」が登場
 長かった甲州の道を出たあと、久しぶりに入った信州だが、またたく間に終着点に到着である。
 
土蔵の屋根の雀おどり
 
 
 
 
 
  安曇野で見た雀おどり


 諏訪盆地を歩き始めて、いつ諏訪湖の湖面が見えるのかと楽しみにしたものの、なかなか姿を見せてくれない。そんな中で目に入ったのが「雀おどり」である。旧中山道を歩いたとき、塩尻宿周辺で見た屋根の棟飾りである。中山道の「雀おどり? カラスおどし?」のページで紹介した。国の重要文化財である堀内家住宅をはじめとしてその辺りに様々な飾りがあったのだが、これが、この諏訪湖周辺にも多く見られるとはやや意外だった。前回、旧甲州街道の台ケ原宿の造り酒屋にこじんまりした雀おどりがあり、信州近しの感を覚えたし、今回歩き始めた金沢宿では、廃屋にその名残があった。何といっても塩尻と諏訪はすぐ近くだから現れるのは当然なのだが。上諏訪宿に近づくとこの棟飾りが増えてきた。右の写真の一番上にある雀おどりは、まだ新しい土蔵の屋根にある。漆喰で固められた土蔵の壁の「牛鼻(ウシバナ)」と呼ばれる部分の装飾に描かれた大黒様との組み合わせが面白い。

 もともとは、石を置いた板屋根で、風の被害からの保護のための工夫から始まった飾りで実用的なものだったといわれる。しかし、あの「卯達(ウダツ)」と同様に、家の格を表すものとしてデザインを競うようになったらしい。塩尻の堀内家がそうであったように、庄屋格だけに許された大屋根では、その飾りは実に豪快である。庄屋格の家ではこの棟飾りを「からすおどし」と呼び、通常の民家造りの場合は「雀おどり」と呼び分けているという。

 この諏訪では、民家の母屋だけでなく、土蔵にもこの飾りがあり、瓦屋根にまで付けられているようだ。形も様々である。残っているというだけでなく、新築の家に今も取り付けられて、おしゃれをしている様子である。

 今回、下諏訪まで歩いて甲州街道を終えたあと、大糸線で安曇野の穂高付近に出かけて、少しだけ歩いてきたのだが、驚いたことにこの雀おどりが安曇野にも多いのである。どこがこの飾りの発祥であるかはわからないが、松本平から南の諏訪盆地や北の安曇野に広がったのだろうか。善光寺平や上田盆地、伊那盆地など、信州の他の地域にもこうした雀おどりがあるのかどうか、今後、機会があれば観察してみたい。

 丸石の道祖神に加えて、信州の甲州街道で見つけた街道沿いの文化である。

 
左に穂高連峰、右に槍ヶ岳
   
 
  
   
  
  
 
   上諏訪宿に入ると、造り酒屋が続々登場する。 今夜はどれを・・
    
 
   
  
 
  
 
 
  
   
  
 
 やっと姿を現した諏訪湖 
 
  
  
 堂々たる雀おどり 
  
 
  格子も美しい
  
 
雀おどり越しの湖面 
 
  
  
  
  
  
 
 下諏訪宿では灯りがともっていた。 1年でもっとも日が短い季節である。
新鶴本店は休店日だったが、翌朝、店が開くのを待って塩羊羹を買った。
旧中山道を歩いたとき以来の、久々の銘品の味である

  
 灯りのともる諏訪大社下社秋宮に、完歩のお礼参りをした。 これで五街道プラス2を歩いたことになる 
  
完歩の翌早朝の諏訪湖。 中央左に、わずかだが富士の頭が見えている。 ほんの少々の祝いか 
 
 
  
謎多き道祖神
 異彩を放っていた丸石道祖神に好奇心が広がり、これまで丸石道祖神と甲府道祖神祭りとの関係や、信州に多い双体道祖神、そして、そもそも道祖神の起源は何だったのか、などに関心を持って調べてきた。最近入手した昭和40年代の著名な研究者や野仏愛好家の書物などを興味深く読んだが、分からないことが多いらしく、それに研究者の視点の違いからか見解もまちまちで、なかなか全体像が見えてこない。そんなとき、民俗学の専門家である若い友人から資料が届いた。その資料「道祖神像の源流」によると、道祖神の起源は、明解にまとめられるほど単純な話ではないようだ。村の境などに「境の神」として祀られる石の道祖神と同様の信仰が、石ではなくて藁で作られた「人形道祖神」として全国に分布しているというし、その人形道祖神が小正月の行事と結びついて祀られ、火祭りで焼かれることが多いらしい。これらは石の道祖神と同様に長野、山梨、新潟、群馬、神奈川、静岡など、関東や中部地方の一部に分布しているという。また、小正月用の人形道祖神には、丸棒や又木を利用した「木偶」もあるそうだ。どうやら、古代からの自然崇拝の流れなのか、石だけはでなく、庶民の身近にある素材の藁や木の枝も利用して祀られ、これらが素朴な自然石の道祖神や、藁や木偶の道祖神人形となった、あるいは関係づけられた、ということのようだ。疾病に悩み、自然災害や飢饉を恐れたり、子宝を望み、豊作を祈念するなど、素朴ではあるが、地域の環境もあって複雑に絡み合ってきたから、簡単には解析できないらしい。塞の神(セエノカミ、境を守る)、道の神、性の神、豊年祈願の作神など、素朴な民間の複合信仰の神である、という説明だけで満足すべきか。

   
 左と右上は 握手型の双体道祖神

 信州には男女の双体道祖神が多く、安曇野ではそれらを訪ね歩く道祖神探訪コースもあるようだ。素朴な自然石道祖神から進化した形のひとつだろうが、たしかに、男女が寄り添う形は微笑ましく見ていて楽しい。双体道祖神にも、神官像、僧形像、祝言像、合掌像、握手像、さらに抱擁像や接吻像までいろいろあり、それらが刻まれた背景を考えることも面白そうだ。これら双体道祖神の歴史はさほど古くなく、原形は安土桃山時代に遡れそうだが、多くは江戸初期から、特に江戸中期以降に盛んに制作されたようだ。信仰だけでなく、江戸幕府の規制やそれに抗する庶民が苦心して表現した形が刻まれているらしい。

 都の華やかな文化は豊かなときに花が開くといわれるが、田舎の素朴な道祖神や野仏も、村が豊かなときに祀られたようだ。もちろん、冷害や水害などの自然災害による飢饉にみまわれたときには、それどころではなかったが、その後、落ち着いたときに急に数を増やしたという。野仏に、強い祈りの気持ちを託したようだ。

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<参考資料>
 ・武田久吉:路傍の石仏、第一法規出版(1971)
 ・池田三四郎:信州の石仏、東峰書房(1985)
 ・酒井幸夫:安曇野の道祖神、柳沢書苑(1969)

 ・神野善治:道祖神の源流、川崎市市民ミュージアム企画展解説図録


 何気ない風景が美しい、あたりまえの風景がすばらしい。どの街道を歩いてもそう思ったのだが、この甲州街道も、まさにそうであった。自然が美しく、そしてその美しい自然をひきたてているのが人の暮らしである。祈ったり、ちょっとおしゃれをしたり、格式を誇ったりして、旧街道の風格を今に残しているのであった。よい道であった。
  
 
ご覧いただき、ありがとうございました。
無事、旧甲州街道を完歩しました
 

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