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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その21

木之本-長浜-米原-鳥居本
  
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
木之本-姉川大橋 10.71 km 11.70 km 15,669
姉川大橋-長浜 4.44 4.42 6,703
長浜-米原 9.44   11.45    15,361  
米原-鳥居本  3.79   4.40   6,077  
合計 28.38 km 31.97 km 43,810
高田宿からの累計 407.22 km 451.43 km 636,179
追分宿からの累計 541.85 km 598.72 km 848,248 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2013年5月
    
   
    
 
  
 
 
 


木之本から長浜を経て鳥居本まで
ついに、旧北陸道・旧北国街道歩き、最後日となった 
 木之本を出発
 
 木之本、本陣跡前を朝6時半に出発
 
木之本では、関ヶ原に向かう脇往還との分岐点を経て、町を出て田園地帯に進んだ 
 
1時間半ほど歩いて、遠くに伊吹山が見え始めた(写真の右遠く)
 
  
   
     
    
 
山の用水路は壮大なロマンの名残りだった
 昨日今日、琵琶湖の北岸から東側の湖岸を歩いている。思うのは、時代の流れに負けて消えて行った北前船や丸子船である。しかし、長かった旅の物語は、夢のある話で締めくくりたい。

 知っている人、聞いたことがある人は多いだろうが、京の都や大坂と北陸、奥州、蝦夷とを結ぶ大動脈であったころの琵琶湖の華やぎをもう一度、という夢物語があった。そもそも、日本列島の形を見て、昔の都の人たちも思ったのだろう。大阪湾と琵琶湖と敦賀湾をつないだら、船と馬を何度も取り換えずに荷が運べるはずだ、と。平安時代の後期、1166年ごろ、平清盛が命じて平重盛が運河を考えたのが初めだったらしい。だから後に、西回り廻船、北前船の登場によって衰退してしまった琵琶湖水運の起死回生をはかるべく、敦賀と琵琶湖、そして琵琶湖と大坂湾を結ぶ運河計画を作ったとしても、当然だったのかもしれない、と頷く。

 今回の、最後の旧北陸道歩きを計画中に、この本州横断大運河計画なるものの名残りがあることを知った。運河計画のことは、以前にも聞いたことがあるような、おぼろげな記憶があるが、まさか実行されたとは思わなかった。塩津街道を敦賀から7キロ程歩くと、疋田という元の宿場に出る。ここで、街道は琵琶湖の西岸を行く西近江路と塩津に向かう塩津街道が分かれるのであるが、その疋田まで、敦賀から運河が掘られて実際に舟を通したというのである。そして、その運河は、舟川と呼ばれて、今もその名残があるというのである。これは見ないわけには行かない、というわけで、今庄からのルートを敦賀に出る木ノ芽峠越えに決めた理由のもう一つが、この運河にあったのである。
疋田の舟川 もと2.8メートル幅の運河だった


 人口300人というから、疋田の宿は、この街道の他の集落にくらべれば大きい町だが、静かである。家並みの中の街道を行くと、きれいな水が流れる用水がある。見た目には、これまであちらこちらの宿場で見てきた用水路と違いがないように見えた。ところが、通りがかりの地元の方に聞くと、これが、元運河だったというのである。公民館だった建物の一角に資料の展示があった。それによると、今は巾1.5メートルしかないが、当時は巾が9尺、すなわち2.8メートルだったそうだ。1816年に完成したという。船は、長さ3間(5.4メートル)巾7尺(2.3メートル)ほどで、平底の高瀬舟に似た形だったらしい。ここの資料室にも高瀬舟が展示してあった。舟を流れに逆らってのぼらせるために、しゅろ縄で7,8人がかりで引っ張ったそうだ。水量が不足する時期のために、川底に胴木と呼ばれる丸太を敷いて抵抗を小さくする工夫もしたという。一旦西廻り廻船に押されたが、ペリー来航後の外国船出没への警戒から、この舟川が見直されて1857年に大改修を行って再開通し、敦賀経由の加賀藩米は、1500俵程度だったのが11万俵と大幅に増えて大浦や塩津の港に運ばれたという。琵琶湖までのごく一部の区間ではあるが、実際に運河で物資が運ばれていたとは驚きである。

 敦賀からここまで、舟を標高70メートルまで引き上げてきたことなるが、さらに標高80メートルの琵琶湖まで、この先に、塩津街道でいえば、270メートルほどの峠や高い山がある。これを越えるためにどのような運河を掘るつもりだったのだろう、と不思議に思ったが、当時の計画図が展示されていた。図面によると、敦賀から疋田まで、69丁(7.52km)標高23丈9尺余(71.7m)と測られていて、正確さにまず驚いた。そして、この先琵琶湖の塩津浜まで運河の計画は、途中の山を30丁(3.3km)長さのトンネルでつなぐつもりだったようである。時代が同じかどうか確認していないが、長浜の鉄道文化館で見た、当時の計画図には、閘門(パナマ運河や、今もヨーロッパにたくさんある、水門で水面の高さを調節する方式)も書かれている。できるだけ自然の川を利用しながら、何とか峠越えや標高差を克服しようと考えたようである。

 疋田・資料館展示の疋田-琵琶湖間運河計画
 
長浜・鉄道文化館所蔵の運河計画::閘門方式が描かれている

 日本海から太平洋までつなぐ運河計画は、1500年代、1600年代などに多くの計画が提案され、その後も続き、なんと平成に入ってからも提案がなされたという。明治38年には貴族院で計画が採択されたが、日露戦争で中止となり、大正時代には琵琶湖疏水を成功させた田辺朔郎の計画で、パナマ運河方式の閘門利用で1万トン級の汽船を通そうとしたし、昭和38年には3万トン級を通す計画も提案された(WEBページ「本州横断 水運ネットワーク 運河計画」 参照)という。

 結局、疋田の舟川は、唯一、実行に移された運河計画の名残りであったわけだ。高瀬舟を敦賀から琵琶湖まで漕ぎ上げることも、琵琶湖に1万トン級の船を浮かべることも、夢にすぎなかったが、計画には壮大なロマンがあった。歴史的な無駄遣いをせずに良かった、というべきなのかもしれないのだが、街道歩きという無駄遣いをしてきて、今、そのゴールに着こうとしている自分にとって、やはり、ロマンの方に拍手を贈りたい気持である。

 疋田の静かな町で、幼稚園も小学校も要らなくなってしまった、と、寂しくなった町の様子を嘆いていた地元の人の声が耳に残る、山の中の、夢の運河の里の物語であった。

この湖が、日本海とつながったかもしれない

 
   
 
  
 
  
 
    
  
 3メートルを越える背の高い道標である。 「左 竹生嶋道」とある。 1862年に建てられた 
 
うれしいプレゼント
  木之本から歩き始めて、1時間半を過ぎたころ、浅井長政の小谷城のあった山や、対して信長が砦を築いた虎御前山が見えているはずだと思い、国道沿いの鉄工所で見かけた方に聞いてみた。遠くに伊吹山が見えていることなども、親切に教えてくださった。

 そのとき、国道を歩くのはつまらないから、すぐそこの高時川の土手を歩いた方が気持ちがいいですよ、と勧められた。実は、北国街道の旧道を歩いているのです、と話したところ、「ちょっと待ってください」と、部屋に戻って一冊の本を持ってこられ、プレゼントしてくださった。地域情報誌「み~な」の第116号「北国街道をゆく」であった。

 「北国街道の絵図」として、鳥居本近くの中山道分岐点から、越前、今庄までが、実に分かりやすいイラスト地図で描かれている。持参した手造りマップには沿道の目印が載っていないから、この絵図は大変重宝し、以後、併せて見ながら、最後の道を歩くことができた。たいへん有難かったのである。
 

 大変うれしい出会いであり、うれしい贈り物であった。帰って、他のページも見ると、北国街道や北近江に関する興味深い記事がたくさん出ていて、それらも大いに楽しむことができた。

 奥付を見ると、長浜み~な協会発行とあり、北近江地方のみなさんに向けた知的情報誌として、季刊で発行されているようだ。地元向けだけでは、あまりにもったいないと思う。だから、感謝の気持ちを込めて、ご紹介する次第である。バックナンバーの入手も含めて、みーな編集室のページで紹介されている。

 北国街道での、うれしいご親切に、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 
長浜を通過 
 長浜を通過
 
  
   
 
 
 
 
   
    
 
 
 
  さすが長浜である。 大都会である。 鉄道開通のころ水運と陸運の接点であった。
そのころの倉庫群や町家だろうか、保存されて、今、観光資源として活躍している
 
  
 
  
 
      
 
  
  
伊吹山の傷がはっきり分かるようになった
   
    
 
長浜ドーム。  ランドマークである
 
  米原宿に入る 
 
 米原駅からは想像できない旧道沿いである 
     
旧中山道と合流して鳥居本宿に到着  ゴールである 
    
  この小さな標識に、感動した。記憶にある懐かしい標識である。 ついに、旧中山道と合流した   
  
      
 
旧中山道歩きのときには、夜の到着、翌早朝の出発であったから、この「神教丸」の店は閉まっていた。
今回、初めて買い求めることが出来た
   
 懐かしの無人駅 近江鉄道・鳥居本駅  旧中山道のときは、ここから電車で彦根に向かったが、今回は米原行きに乗る
長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。
たくさんの励ましもいただきました。お礼を申し上げます

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