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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その19

今庄-木ノ芽峠-敦賀
  
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
今庄-二ツ屋 5.59 km 6.43 km 9,550 今庄:本陣跡
二ツ屋-木ノ芽峠 5.10 7.59 8,662
木ノ芽峠-新保 2.19   2.44    4,534  
新保-樫曲  5.77   6.42   8,451  
樫曲-敦賀  4.30   4.76   6,693   敦賀:白銀交差点
合計 22.95 km 27.64 km 37,890
高田宿からの累計 348.54 km 388.32 km 547,702
追分宿からの累計 483.17 km 535.61 km 759,771 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
 map
2013年5月
   
今庄から木ノ芽峠を経て敦賀まで
前日の終点、越前の今庄からスタートして、木ノ芽峠を越えて敦賀に向かう。標高約630メートルの山道である
 
 新緑がまぶしく、花も咲き乱れて美しい山野を気持ちよく歩いた
 
栃ノ木峠越えか、木ノ芽峠越えか
 今庄から次の宿場、木之本へは栃ノ木峠を越えて行くのが本来のルートである。なぜか、・・・。

 古代から「北陸道」は存在したが、当時は道路である前に、行政単位としての地域、すなわち「国」を示していた。律令制末期には、佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、若狭の7ヶ国を指した。そして、その地域を貫く主要道としての道路にも「北陸道」という名称が使われていた。下って、中世、室町時代後期ごろの、府中(武生)から近江に向かう道は、今庄から木ノ芽峠を越えて敦賀に至るルートであった。しかし、近世になって、織田信長のもとに駆けつける際の距離を短縮するために、柴田勝家によって栃ノ木峠を越えるルートが開発された。以後、この栃ノ木峠越えが幹線道路になった。今、北国街道と呼ばれる道である。なお、復習すると、旧東海道や旧中山道は、江戸幕府が制定した五街道であり、幕府によりしっかり管理されていたが、「北陸道」、「北国街道」は、幕府ではなく、加賀藩や福井藩など通過する藩が管理する脇往還と呼ばれる主要道として位置づけられていた。

 幕末ごろの街道ルートをたどって歩く自分にとっては、だから、この栃ノ木峠越えが正しいのである。しかし、今回、そうではなくて、木ノ芽峠を越えるルートを選んだ。中世の北陸道を通ったのである。なぜ栃ノ木峠を越えないで木ノ芽峠を越えることにしたのか、実はいくつかの理由がある。

今庄から木之本までのルート概略図 赤い線:今回のルート「木ノ芽峠越え」 青い線:本来のルート「栃ノ木峠越え」

 理由のひとつは、今庄からこの栃ノ木峠越えで木之本に至るルートは、当時ならば、途中に板取宿、柳ケ瀬宿の宿場があったが、今、今庄から木之本まで約40キロに宿泊できるとろがないと聞いていたからである。昔の旅人なら一日10里、40キロは当たり前だし、自分も旧東海道などで約40キロを歩いたことはあるが、安全を期したかった。選んだ木ノ芽峠越えルートは、約25キロで敦賀に出られるのである。なお、この木ノ芽峠越えルートは、北陸本線の南今庄から敦賀間の、長いことで有名な北陸トンネル(上の地図に点線で書かれている)に、ほぼ平行したルートである。トンネルよりも距離はさらに長いが。

 さらなる理由は、木ノ芽峠越えが奥の細道のルートであることである。そして、それ以上に、栃ノ木峠越えでは行けない敦賀に行きたかったこと、そしてその先の琵琶湖に通ずる塩津街道を歩けることが魅力だったからである。この敦賀から木之本への塩津街道は、北前船や琵琶湖の船が運んだ物資を馬に積み替えて通った、水運と密接な関係を持つ道だったから、ぜひ歩いてみたいと思ったのである。この話題については、次のコラム「海の街道 その6 北前船と琵琶湖の丸子舟」に紹介するつもりである。

 敦賀から木之本までの塩津街道は約30キロであり、今庄、敦賀間を加えると合計で約55キロとなって、栃ノ木峠経由にくらべるとかなり遠回りである。しかも、中世の北陸道は、今回と違って敦賀から琵琶湖西岸の「西近江路」で京都に向かったから、結局、敦賀から木之本までは、近世の北陸道でも、中世の北陸道でもない街道を歩くことになってしまうのがやや残念ではあった。

 今庄で泊った旅館の若女将によると、「ウチに泊まるお客さんは殆んど、木ノ芽峠越えで行かれます」とのこと。また、その翌々日に木之本で泊った旅館のご主人の話では、今庄から出発した女性二人が、木之本にたどり着けず、途中からSOSが来て、クルマで迎えに行ったとのこと。迎えのクルマも、二人が暗い山中の道のどこにいるのか分からず、たいへんだったそうだ。よく調べずに歩いたらしく、まさか40キロもあるとは思わなかったらしい。ということで、若くて元気なウォーカーならともかく、木ノ芽峠越えの方が安全であろう、選んだ道は正解であった、と思った次第である。

 ところがである。事前にルートをよく調べたまではよかったのだが、トラブルに見舞われてしまった。木ノ芽峠頂上までは順調に登ったものの、峠を越えて、足元のよくない狭くて急な下りで、太ももに異常が出て、すっかり調子を崩してしまった。のろのろ歩きを余儀なくされた上、そのいらだちからか、旧道に入るべき分岐点を見逃すなど、何度か失敗までしてしまったのである。これでは、せっかく木ノ芽峠越えを選んだものの、こちらの方が楽であると云った説得力がなくなってしまった感がある。中高年の一人歩きのリスクは峠を問わず、であったのだ。幸い、その後、快復して無事敦賀に着いてホッとしたのであるが。
 
 
今庄からスタート 
   
朝の宿場町は、実に好ましい雰囲気である  
 
  
   
    
なぜかGPSデータのズレが大きい
  前日の、鯖波から今庄までの間でもあったが、今回の今庄-木ノ芽峠間ではGPSの表示位置がずれる現象が大きいように思う。これまでの経験や情報から、一般にビルの間に入る都会や葉の茂った森や山の中では狂いやすいと承知している。今回、map で表示される、予定ルート(青いライン)に対して、実際に歩いた軌跡(赤いライン)が大きくずれているところがある。注意不足でルートを間違えたところと、GPSデータがずれているところには、マーカーをクリックして出る説明部分に注意書きを書いた。資料からの読み取りミスなども、ないとはいえないが、基本的には、青いラインで示した予定ルートが正しいと思っている。ご注意いただきたい。
 GPSの狂いは、敦賀市街に入って、気比神宮から終点の白銀交差点までが、アーケード街ゆえ大きく乱れている以外は、恐らく樹木の茂った山道で起きているのだと思うのだが、もうひとつ、帰ってきてから気づいたことがある。新聞情報で見た太陽フレアである。今回歩いた4日間のうち、はじめの3日間に、かなり大きな太陽フレアが発生して、通信障害やGPSの位置情報に数十メートルの誤差が出ている可能性がある、というのである。ネットで調べたところ、時刻的にも、ずれが大きかった時刻と重なっている可能性がないとはいえないようである。実害があるわけではなく、むしろ宇宙的な現象に遭遇したのであったとしたら、記念すべきことかもしれない。
 map をご覧になり、利用される方に、ご注意とともに弁解を申し上げる次第である。
 
 
 
  野生の藤が盛りを迎えている  この木は、この日と翌日に歩いたルートに非常に多かった
 
  
 
この木組の破風ともそろそろお別れかもしれない
 
新緑のグラデーションが美しい  ここも藤の花がたくさん見えている  
 
  
 
今、二ッ屋の集落は山道にかかる前にあるが、旧二ッ屋宿場は山の中に石垣を残すだけである
  
宿場跡、関所跡、首切り谷など、物騒な表示もある
   
この広い坂はスキー場のゲレンデである  ここを横切って旧道に戻る 
   
言奈(いうな)地蔵 

   
   
    
     
  
 
 
 峠からの下り道で脚を痛めた
  
脚の痙攣のため、こんな快適な道も50メートル、100メートルごとに止まって休む羽目になった    
 
どり着いた敦賀の気比神宮である 
社殿にお参りする元気がなく、ここから遙拝した。
敦賀駅方向に歩き、駅近くの白銀交差点で本日の終点とした 
 

 map   
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