初めての大旅行 |
その1 暗やみ中の出発 |
広場の方に向けて切符売り場が並ぶ建物は開放的なつくりだが、威厳のある仙台駅舎だった。 大きな鉄製の軒を広げ、黒く塗り固められた姿が、とてつもなく大きな建物であるように思われた。 それが今、粗末な木の板が打ち付けられた囲いの隙間から覗いてみると、焼けただれた鉄骨が曲がりくねった無残に姿に変わり果てていた。 子供心にもその悲惨さに胸が痛んだ。 粗末な仮設駅舎は人で溢れかえっていた。 終戦を迎えたものの列車の本数はわずかで、買出しや肉親を訪ねる沢山の人たちをとてもさばききれるものではなかった。 下り青森行きの夜行列車は、デッキも窓も人が鈴なりで、蒸気機関車の前部デッキや炭水車にまで乗り込んでいる。 乗り込める余地はまったくない。 しばらくして、臨時列車が出ることを知って、プラットフォームを走った。 橋を渡った2番線ホームにそれはとまっていた。 その列車は、なんと貨物列車であった。 屋根のある貨車だ。 しかし、床に座れるだけでも極楽だった。 少なくともその貨車に乗った全員が床に座ることができたのである。 動き始める。 扉を閉めてあるから真っ暗だ。 もっとも、終戦直後で灯火の少ないころだから扉が開いていても暗かっただろう。 なにか、ぐずって言ったのだろうか、近くに座っている人がマッチを擦ってくれた。 ボーっと明かりがともると 車内の人たちの顔が浮かんだ。 みんな一様に、「ほーっ」と声をあげた。 とても穏やかな車内だった。 暑さと暗さと二軸貨車の硬い振動や騒音で快適ではなかったはずだ。 しかし、印象はとても静かだったのである。 そこで記憶は途切れている。 眠ったのだろう。 翌朝、気づくと正真正銘の客車のボックスシートに悠々と掛けていた。 盛岡で始発の青森行きに乗り換えたのだった。まさに天国のような座り心地だった。 発車前の盛岡駅のプラットホームも、今乗っている客車も別世界のように輝いて見えた。 動き始めると、貨車とは比べようもないほど乗り心地が良かった、はずである。 しかし、また、ここで記憶が消えている。 安心して、また寝てしまったのだろうか。 港である。 青森港だ。 港には小さな船が何隻も走り回っていた。 そんな船を見下ろしながら、どの船に乗るのかと聞いたら、もう乗っているのだという。 青函連絡船は陸のように大きくどっしりしていたのである。 なんだか気恥ずかしかった。 これが、物心がついてから初めての大きな旅の始まりであった。 昭和21年の夏である。 |
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その2 樺太を望み利尻富士を仰ぐ |
稚内から乗った船は青函連絡船に比べるとはるかに小さかった。 揺れる船の甲板に出て父に抱きかかえられて窓越しに操舵室を見た。 船の進行右側はるかに陸地が見える。 カラフトだと教わった。 その父の言葉に、なにか訳ありの雰囲気があったが、その時にはもちろん意味がわかるはずもなかった。 はるかに見えるその樺太は、なにかとても懐かしいところとして心に刻まれた。 他国の領土になってまだ間もないころだった。 当時はまだ、サハリンという言葉はつかわれていなかったように思う。 船の前方に富士山のように均整の取れた立派な山のある島が近づいてくる。 利尻島であった。 港の沖に停泊し、ハシケが客や荷物を運ぶのを甲板から眺めていた。 小さな船だったはずなのに、それははるか下の方に見える光景に映った。 その角度で見ると、のしかかる様にそびえて圧倒している利尻富士山は、むしろ港とそこにいる小さな漁船たちをやわらかく抱きかかえている印象であった。 とても平和な光景に思えた。 しかし、これはミュージカル「南太平洋」のシーンと重なった記憶なのかもしれない。 船は利尻島から礼文島に向かった。 見えてきた礼文島は、するどく海に落ち込む崖の上に、なだらかな台地が続く台形の島というのが第一印象だった。 強く印象に残ったこの形が、礼文島だけではなく北海道北部の海沿いに共通する独特の地形であると、比較的最近になって気がついた。 とても懐かしい形である。 船は、沖にいかりを下ろして止まった。 ハシケに乗り移るには、船の中腹に大きく開けた四角い開口部から、はしごに近い急角度の階段を伝ってから飛び移ったように思う。 まさか縄梯子ではなかっただろうと思うが、 かなり冒険っぽいことをした印象である。 海はきれいだったのだろうか、波は静かだったのだろうか。 覚えていない。 港からの道を歩いたのか、何かに乗ったのか、もちろん自動車はないが、も記憶にない。 しかし、海沿いに建つ家々が板を重ねた壁と板葺きの屋根で、色としては灰色の景色だった。 ずっと後に北海道を何度かたずねたときに、強烈な懐かしさを覚えた色と景色である。 |
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その3 礼文島の崖から転落 |
その家は砂浜続きにある大きな家だった。 浜には漁船が何隻も上げてあった。 父は夜、誘われて夜の漁に同乗させてもらって早朝帰ってきた。 いか漁だったと思う。 母に連れられ、島の北の方向にある学校を訪ねたこともあった。平屋の小さな学校だった。 小学校だったのだろう。 記憶では、道路から学校の門まで50〜100メートルほどあって、門の周辺には大きな桜の木が葉を茂らせていたような気がする。 しかし、礼文島にも桜があるのかどうか、本当は桜ではなかったのかもしれない。 門の右側に訪ねる家があった。 母の先生だと教えられた。 浜に続く家の裏はすぐに崖だった。 例の台形の丘である。 大人の下駄を引っかけて一人で庭をウロウロしながら見上げると、その丘にはきれいな野の花が沢山咲いていた。 その奥には、高い山が遠く連なっていた。 見ると、家の裏からその丘に斜めに登る、幅30センチほどの細い道があった。 そのまま、その道を登り始めた。 石がごろごろして足場が悪く、歩きにくかった。 大人の大きな下駄であるからヨロヨロしていたに違いない。 いっぱいに広がる花の群落が近づいたような気がした。 左下を見下ろすと白い砂浜と青い海がとてもきれいだった。 といってもまだほんの少し登っただけであるがずいぶん高いところへ登ったように思えた。 さらに登ると、そこは道の左端が崩れて細くなっていた。 道端の草もそこで途切れて空間が道に食い込んでいるように見えた。 そこから崖の下をのぞくと, 積んであったのか転がっていたのか太い丸太が数本ちらっと見えた。 危ないなあ、と思った瞬間であった。 そこから落ちた。 ごろごろ転げ落ちるというより、まっさかさまに落ちた様な気がする。 そして、その丸太に頭を打ちつけた。 そこから先ははっきりしない。 泣き叫びながら家に帰ったことをうっすら覚えているから、失神したわけではないのであろう。 船で稚内の医者に連れて行かれた。 小さな医院の待合室には、夏というのにストーブが燃えていた。 不思議なことに、礼文島から仙台への帰路についての記憶はまったくない。 しかし、そのときの傷が頭のてっぺんに残った。 この夏の不思議な大旅行の記念に、文字通りしっかりと刻み込まれたわけである。 そしてこの旅の印象や意味について若干ではあるが子供心にもしっかりと刻み込まれていたこと、そのかなりの部分で今日の自分の原点になっていることに、最近になって気づいた。 あの時、レブンアツモリソウ や レブンウスユキソウ を見たいと思ったわけでもないだろうが、いろいろな礼文の花が一面に咲き乱れる野原を見渡してみたかったことだけは、たしかなような気がする。 その島に今度こそ行ってみるつもりである。 |