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ここが、新宿中村屋 発祥の地でした 
驚くことに、その中村屋の建物は今も現役でした
 2006-2-22
予想外の展開
 コーヒーを注文した。レジには、この店の主ではないかと思われる年配の男性がいる。読もうと思って取り上げた新聞を置いて、レジに行った。
  「ちょっと教えていただきたいのですが」
  「ん?」
  「こちらのお隣の、もう一軒先のコインランドリーが、新宿中村屋発祥の場所と聞いたのですが、
   そうでしょうか?」
  「えっ・・・・。 いいえ。 ここです」 と、ご主人、人差し指を下に向ける。
  「えっ。 このお店ですか。 本当ですか。 ・・・・・・・・・・驚きました」
本当に驚いたのだ。やっと追い詰めたと思い、ダメ押しのつもりで確認に来たのだ。 コインランドリーに店員はいないので、二軒隣の喫茶店なら分かるかもしれないと思って入った店だ。 最後の最後に予想外の展開になった。
ご主人もいささか驚いたようで、
  「どこで、そんなことを聞いたのですか」
  「前から探していたんです。本郷の赤門前と聞いていたのですが、正門前らしいとやっと分かったんです」

ご主人、レジの近くに積んである書類の中から小冊子を出して見せてくれた。表紙には、「慈愛だより」2005年(Vol.14)第1号と書かれている。地元、本郷にある慈愛病院の広報紙のようだ。その何ページ目かに、
わが町探訪第八回 新宿「中村屋」・・・文京区本郷棚沢孝一とある。
  「あっ、この棚沢さんとは、おとなりの本屋さんですか」
  「そうです。ほら、ここに、現在は喫茶こころ、になっています、と書いてあるでしょ。 
   ウチがここに越してきたときには、まだパンを焼く釜があったんです。石釜がね。
   邪魔になるので壊しましたが、その石は裏の塀に使っていますよ」
そのページのコピーが欲しい、とお願いしたら、どうぞ、正門前のコンビニでとれますよ。 ということで、お借りしてコンビニに急いだ。
ここにお良さんがいた 

 「ここからコインランドリーのお店まで、全部中村屋だったんですか?」
  「いや、ここだけです。新宿に引っ越したあと、別のパン屋さんがここであとを継いだんですが、その後、
   コインランドリーのところへ移ったんです。だから、中村屋はもともと、あのコインランドリーのところに
   あったと勘違いされているんです。そのパン屋のあとは本屋になったんですが、さらにコインランドリーに
   変わったんです」
   「そうですか。きちんと書いて残さないといけませんね。書いてよろしいですか」
   「いいですよ。この店と、隣の古いお店の化粧品のおかめやさん、、そしてコインランドリ三軒は長屋です。
   建て直すのも一緒にしなければならないので簡単には出来ないのです」と、外に出て説明してくださった。
   「えっ、そうすると、このお店は中村屋の当時の建物ですか?」
   「そうです。もちろん改装はしていますがね」

  「すごい。 ここにお良さんがいたんですね」
 「ご主人は、いつごろからここに来られたのですか?」
   「20歳のとき、50年前ですから、昭和30年ごろですね。それまでは、この先の駒込寄りの、
    あそこに見える韓国料理の店のところに住んでいたのです」

先代の中村屋社長が来た

 ここで、なぜ中村屋に関心を持ったのかを、小説安曇野のこと、相馬夫妻が外国人も含むいろいろな人たちの世話をしたこと、それでインドカリー、月餅が生まれたこと、お良夫人に惚れた碌山の彫刻のことなども交えて簡単に説明した。
   「ずいぶん、太っ腹な人だったんですねえ。新宿に移ったから成功したんですねえ。
   ここじゃあダメですもの。 そういえば、中村屋の先代の社長という人がこの店に来ましたよ。
   でも、ここが、中村屋発祥の地だと知っている人は少ないですよ」
   「中村屋さんが、ここに碑でも建てれば良いのにねえ。 今度は仲間を連れて、また来ます。
   ありがとうございました」
   「ありがとうございました
ここが中村屋発祥の地であり、その建物である。喫茶”こころ”である。
地下鉄なら丸の内線の本郷三丁目で降りて、東大赤門前、本郷郵便局前と歩き、正門前を通過して間もなく左側にある。
地下鉄南北線の東大前駅の方が距離としては近いだろう。農学部前から正門方向に行けば右側にある。
上の写真の左から、「棚沢書店」、「喫茶こころ」。「化粧品おかめや」、「コインランドリー」の順である。 棚沢書店以外の三軒は、昔も今も長屋続きである。 
「コインランドリー」は中村屋が新宿に移ったあとも、店員が引き継いで「中村屋」の屋号のままでパン店を続け、「喫茶こころ」のところから移動してきたという場所だ。
慈愛病院の小冊子にある昔の写真の左端に「中村屋」と書かれた配達用箱車が止まっている。当時の中村屋側だそうだ。 通りの右側に写っている商店の並ぶ場所が、この上にある今回小生が写真を撮ったところあたりになる。 今は、車道を挟んだ歩道であり、背中には東大の塀がある。 恐らく、本郷通りの拡幅で、これらの商店がなくなり、東大の敷地が直接通りに面するようになったのだろう。
この角が棚沢書店、その向こう隣が「喫茶こころ」である。
この棚沢書店の建物は、この写真では分からないが、なかなか味のある建物だ。あとで気付いたのだが、文化庁登録有形文化財に指定されている。
    
ご主人と「喫茶こころ」の店内である。 聞くまでもなく、漱石の「こころ」であろう。
店内はたいへん懐かしい雰囲気の、まさに喫茶店である。 コーヒー一杯が350円だ
  
この発見は、うれしかった

 実にうれしい発見と出会いであった。家に帰るまで、何もかもが美しく、すれ違う人誰もがやさしく見えた。
 帰ってから小冊子のコピーをもう一度よく読んだ。 中村屋が新宿に移ったあと、この本郷の店は中村屋の店員が引き継いで、「中村屋」の屋号は残っていた、という。 だから、その店が、同じ長屋の反対側で現在のコインランドリーのところに移転したというご主人の話とつなぎあわせれば、中村屋発祥の地が、今のコインランドリーのところであると書かれたページ、すなわち、中村屋について、
   「(掲載されている)写真は東大正門前を少し駒込方面に行った所です。
   戦災にも焼けずにお店は昭和60年頃まで残っていました。写真の「おかめや」の右隣の
   小さなお店です。今はコインランドリになってい ます」
という表現は間違いではなく、ある時期以降はそうだった、ということになる。 ただし、中村屋発祥の正確な場所という視点から云えば、同じ長屋ではあるものの違っていて、本当は、現在の「喫茶こころ」の場所であり、その部屋である、というのが正確な表現であろう。 
やっと見つけることができたのだ。 


そもそも、なぜ、新宿中村屋の発祥の地を探してきたのか

 この新宿中村屋の発祥の地を探し始めたきっかけは、昔読んだ臼井吉見の小説「安曇野」(筑摩書房)である。 日本の近代思想史ともいえる大作だが、その縦糸として登場するのが、後の中村屋創始者、相馬愛蔵、良夫妻である。

 ここから先は、小生が18年前に書いた旅の記録に語らせることにする。
たもぎと風の盆」という文の一部だ。

                           <安曇野の榛の木林>

 「はんのき」で思い出す。 臼井吉見の悲願の大作「安曇野J(筑摩書房・ちくま文庫)は、
      水車小屋のわきの榛林(はんのきばやし)を終日さわがしていた風のほかに、
      もの音といえば、鶫(つぐみ)打ちの猟銃が朝から一度だけ。
で始まる。 そして、安曇野が描かれるとき、有明、常念、爺などの山々の残雪、見渡すかぎり埋めつくす紫雲英(れんげ)の花、そこここにちらほらする土蔵の白壁などとともに、榛の林もたびたび登場する。 また、登場するひとびとはそのような美しい安曇野を故郷として持つことの喜びをうたい、懐かしみ、あるいは羨む。
 荻原守衛(碌山)少年が、白馬の山々を水彩で措いたのも、仙台から愛蔵に嫁いで来た美しいお良さんと時々逢っていたのも、榛林の湧き水の端であった。 ずっと後、新宿中村屋のおかみさんになったお良さんに恋こがれれて、その苦悩から生まれた彫刻の名作「女」も、そもそも
は、榛の木の下で育ちはじめたのだった。 碌山のアトリエで、お良さんの娘、千香子がひと目見て「かあさんだ」と叫び、お良さん自身は立ちすくんだまま溢れ出る涙を拭おうともしなかった、というその作品である。
 舞台となった矢原耕地で万水川(よろずいがわ)、穂高川が高瀬川と合流する。 安曇野でも一段と低い地域で、地下にかくれた山の清水も、ここで地上に姿を見せ、山葵田にそそいで豊かに流れ去るという。 いつか見た安曇野の山葵田の土手に残っていた林も、榛の木だったのだろうか。 もう一度あの木々を見、そして触れてみたいと思う。
 水辺に強い榛の木が、安曇野の、そして越後平野でも、その美しさを一層ひきたてているようだ。


次は、同じ「たもぎと風の盆」に、4年ほど前に追記した「おわりに」の一部である

 「たもぎ」に関する疑問も今なら、ホームページを検索すればたちまち解決する。 本文中でリンクを張らせていただいたページにも明快に紹介されている。 しかし、この文をPC8801MkUで書いた当時は書物でしか調べるすべがなかった。 些細なことでも手間がかかったが、逆に疑問が解けたときや意外な展開が生まれたときの喜びが大きかった。 愛読書である臼井吉見の「安曇野」との接点が出てきたときは、まさに新発見の境地であった。
  「安曇野」を読み終わった後、たまたま東京芸大100周年の展覧会があり、卒業生の作品を中心とした芸大所蔵の絵画や彫刻が上野周辺のいくつかの会場で展示された。 その中に「女」があると知って駆けつけた。 思ったより小ぶりな作品だったその「女」の周りを何度もまわった。 感動に胸が熱くなった。 ずっと後、息子と安曇野を訪れ、碌山美術館で「女」に再会した。 榛の木林も今度はしっかり見つめることが出来た。 目もくれなかった彫刻の世界はこうして気付いてみると、絵画では表現できないエネルギーに満ちた新世界であった。

(参考) 
・相馬愛蔵、黒光(良)夫妻が昭和13年に執筆した「一商人として」のデジタル版
・新宿中村屋のホームページにある中村屋の歴史、 また中村屋に集まった文化人などサロン活動
 
臼井吉見の 小説・安曇野の魅力にちょっとだけ触れた小生の、「たもぎと風の盆
ますたに まさひろ

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