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ハプスブルグウチの奥さん
 オーストリア人やドイツ人など、いろいろな国の貴族がチェコの各地の領主として入ってきたが、これは必ずしも、それらの国によってこの国が支配されたと同義ではなさそうだ。 しかし、ボヘミアを取り巻く勢力地図は、神聖ローマ帝国の中心だった華やかな時代や、2次大戦後のつらい体制も含めて、めまぐるしく変わった。 西洋史に弱いものにはとても理解できるものではないが、初歩的な整理法で単純に、自分に都合よく、納得することに務めた。  

 ローマ教会を激しく批判したヤン・フスが処刑されて始まったチェコの宗教改革運動は、ルターのそれよりも100年以上も早く、ヨーロッパで最初の宗教戦争だったそうだ。 しかし、ボヘミアのプロテスタントの貴族たちは、30年戦争でカトリック勢力と神聖ローマ帝国のハプスブルグと激しく戦って追放されてしまい、ボヘミアが大きく変わることになった。 であるから、ハプスブルグ家は、当初ボヘミアにとっては歓迎すべき存在ではなかったはずである。 しかし、ハプスブルグ家が完全にボヘミアを制圧したおかげで、例えばチェスキー・クルムロフ繁栄の跡のような、今日我々が見るボヘミアの文化が残ったらしいのである。 歴史は複雑である。

 難しいことなので、歴史の複雑さをさて置いて単純化すると、新しい文化が古い文化にとって代わり、あるいは融合し、場合によっては古い文化の方が残るなど、多彩で、時代を超えてグローバルに入り混じる様子が面白い。 文化面だけで見るという無茶なやり方をすれば、世界は、美しさを求めて争いが起き、歴史も動いたのではないかとさえ思えてくる。 旅の過程で目にするものは、史実の記録ではなく、殆んどが建築物や美術品という文化遺産であるからだ。 本を読むことを決意しながら、そんなことを思った。

 かねてから、そのハプスブルグ家に魅せられて、関係する本を読み漁ってきた家内は、系譜に登場するハプスブルグ家の人物の数が膨大で、歴史の史実や小説に登場しても、人間関係を結びつけにくい部分が多かったらしい。 そこを少しでも解きほぐすことが、今回の旅の家内のもっぱらの興味だったようだ。 ハプスブルグ家のショーウィンドウと云われるウィーンのシェーンブルン宮殿はもちろんのこと、チェコ各地に輝いている足跡の多さ、大きさ、華やかさに驚嘆した様子だが、どこへ行っても、見る視点はその一点だったように思う。 
 最もうれしそうだったのは、写真や肖像入りの、大きな模造紙サイズのハプスブルグ家系譜図を手に入れたときだ。 コノピシュチェ城で見つけて、売店からうれしそうに、丸めて抱えて出てきた。 これはウイーンの製品だった。 一人で買い物ができたこともうれしかったに違いない。
 家内にとって良い旅だったことが、何よりもうれしいことである。
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