不思議な屋根を楽しむ | ||||||||||||||||||||||||||||
中世から変わらぬ石造りの建物群は、見かけの文化だけでなく、ヨーロッパ人の精神構造にまでしみ込んでいる基盤であろうと思う。我々、木造の文化の中にいる人間が見るからかもしれないが、違いはすべてここから始まっているといってもよいような気がする。 二次大戦で破壊された街で、瓦礫から石を探し集めて、もともとの中世からの建物を復旧したという話をよく聞く。そして、電柱がない、広告がない、自動販売機がまったくない、住宅地や工業団地に突如現れる高層マンションなどもちろんない、この美しい街並みは、誰がデザインして、誰が決めて、誰が管理しているのだろうか、規制なのか、約束なのか、自主的なのか。どうあっても、石造りの精神文化の賜物としかいいようがない気がする。 自分の場合、旅の楽しさの半分以上は、建物や街並みを見ることである。今回の3つの国の旅では、屋根に注目しようと思っていた。日本の旧街道歩きをしていると、地域特有の建物の形が突然現れて、歩くにしたがって数を増し、さらに歩くといつの間にか減って、消えてしまう、ということがよくある。たとえば、旧中山道の気抜き(2階屋根の通気用櫓)や卯達(ウダツ)である。旧北陸道では、富山県から石川県にかけてのアズマダチ(木組の美しい大型の破風)もそうだった。屋根は、風土と結びついて個性を発揮しやすい。だから、この西ヨーロッパの屋根にも注目しようと思ったのである。以前、チェコ・ボヘミアを旅したときの「ヨーロッパの赤瓦屋根」以来、旧街道、特に旧北陸道では赤瓦に注目して歩いた。そこには日本海側独特の赤瓦が広がっていた。これをオランダやベルギーの屋根とあらためてくらべてみるのも楽しみだった。 <赤瓦・黒瓦> 旅の途中で意識して屋根の色を見た。オランダは赤瓦が多い。しかし、黒瓦もある。かつて聞いた記憶によれば、黒瓦は高価であるので、豊な人は黒瓦を、そうではない人は赤瓦を使うという。黒瓦は還元焼成によって得られる耐水性のある緻密な瓦である。燃料がたくさん要るので高コストである。それに対して赤瓦は酸化焼成で得られ、低コストである。しかし、素焼きであるがゆえに耐水性に劣り、特に凍結で壊れやすいため、多雨地帯や寒冷地には向かないとされる。ただし、日本海側である石見の石州赤瓦は独特の赤い釉薬をかけるため、赤瓦でも耐水、耐寒性にすぐれていて日本海岸の各地に拡がっている。このヨーロッパでは、雨が少なく、凍結の心配も大きくないので、素焼きの赤瓦で十分なのだろう。ところが、不思議なことに、デルフトあたりでは同じ屋根で赤、黒の両方の瓦を使っている家も少なくない。表側に黒瓦、横は赤瓦という組み合わせのように見え、コスト削減と見栄の両立を図ったのか、などと想像するがどうだろう。 オランダでもベルギーでも南に行くと黒瓦が増える。さらに南下したルクセンブルグでは、赤瓦を見なかった。瓦だけでなく、石板や新建材らしき材料もあったが、ルクセンブルグではいずれも黒だった。このルクセンブルグは豊かな国である。一人あたりのGDPは世界一を続けている。だから黒瓦が多い、というのも考えすぎだろうか。ちなみに一人当たりGDP(名目)で、オランダは10位、ベルギーは17位、日本は18位である(いずれも2011年)。 なお、旧北陸道の赤瓦については、「赤瓦あれこれ その1」、「赤瓦あれこれ その2」を参照いただきたい。 |
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<階段状屋根-ゲーブル> 日本の大正時代から昭和にかけての建築様式に「看板建築」というのがある。通りから
それもそのはず、もともと隆盛を誇ったギルドハウスだったようで、先端に飾りが付いているのは、文字が読めなかった中世の人に建物の識別をさせるためだった。魚商人のギルドには金色の籠が載っている。この階段状のギザギザの破風は「ゲーブル」と呼ばれる。ドイツではTreppengiebelというらしい。 ブリュッセルの、グラン・プラスやアントワープのマルクト広場に面する建物のファサードは大規模である。祭りの山車のように、思いつく限りに飾り立てたようなものである。グラン・プラスでは、もともとは17世紀に建てられた木造だったというが、1695年にフランスのルイ14世の命令で破壊された。しかし、ギルドは現在の石造りの建物をすぐに再建してしまったらしい。17世紀の繁栄ぶりを今に残す何よりの証拠だろう。その華やかさに圧倒されてしまう。
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この階段状屋根など、切妻の破風のデザインは、商業地域だけでなく、 住宅地にも及び、現代建築でもその雰囲気が継承されているようだ |
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ンダのうだつ? 赤瓦と黒瓦の併用 | ||||||||||||||||||||||||||||
<17世紀の屋根、町にも残る茅ぶき屋根> 石造りの国では、中世から現代にいたるまで基本的に街並みや家の外観は変わっていないようだ。たしかに、フェルメールの「デルフトの眺望」の現場や、「小路」の現場と思われるところは、すっかり変わってしまったとのことだが、一般的にいえば、17世紀のデルフトの町は、描かれた人物を入れ替えさえすれば現代の風景とさほど違わないように思う。 ピーター・ブリューゲル(父)の風景は16世紀後半の姿だが、役人の招集に応じて人々が押し寄せている宿屋は、日本でいう「兜(かぶと)造り」に似た建物で、オランダを走ると町にも田舎にもその形を見ることができる。その形をした茅葺屋根が多いことに驚かされれる。ヒートホールンでは、もと泥炭を採掘した跡の運河が縦横に走る小さな村を保存するために、車の走る道も作らず、建物の建て直しも変更も禁じられていると聞いた。現代建築と混在している他の地区ではどうなのだろう。「保存」しているのか、快適さやデザイン性から継承されているのか。 同じ時期、17世紀の日本の屋根はどうだったのだろう。16世紀前期、後期、17世紀初期、中期などに京の都を描いた洛中洛外図屏風がかなり残っていて、時代の変化を見るのに便利な資料だ。これらを見ると、寺社や御所のような建築物は現在同様に大きくて立派な建築物だが、商人などが暮らす町家に絞って比較して見る。16世紀には殆どが石置きの板屋根の長屋であるが、17世紀、江戸時代に入ると、屋根の多くは石置きではなくなり、瓦葺も増えてきている。卯達(ウダツ)は16世紀末から増えたようである。江戸図屏風や江戸名所図屏風によると江戸でも同様であるが、京都よりも石置き屋根は少なかったように見える。京都のいわゆる「うなぎの寝床」といわれる間口の狭い京町家はずっと後、明治以降に確立したという。いずれにしても、「木造の文化」である日本では、家の構造や形も、材質も、時代とともに大きく変化した。戦乱があっても動ずることのない西の「石造りの文化」に対して、がらりと変えることに抵抗のない、むしろ変えやすいから積極的に変えようとするのが、東の「木造の文化」であるといえるような気がする。
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